|
二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜 大岡信フォーラム ・om-forum.org |
月例フォーラム/平成15年3月
![]()
※平成15年3月28日に行われた第十一回月例会の記録フランクフルト連詩
本日のテーマ
今まで連詩の話を二回したのですけど、もう一回連詩の話をしたいと思います。
もともとこの会は、私自身の書いた詩を毎回中心に置いて、それに関する話をするということだったのですけど、どうも予定通りにはいっていないような気がします。ただ、毎回作っているこの冊子はたくさんの方にお送りしていまして、送られた人はこれを読んでいるだけでもおもしろい、と言ってくれるので、こういうお話を続けて行こうか、ということになっているわけです。
今日お話しすることは、今までの連詩のお話をした中では一番おもしろかろうと思うんですね。つまり、別の意味でいうと臨場感のある話になるのではないかと思う。ですから今日は詩を読むというよりは、このときの連詩ではこういうことがあった、ということを中心にお話ししようと思います。
フランクフルト国際書籍見本市
場所はドイツのフランクフルト、時期は一九九〇年。今から十三年前になります。一九九〇年は、東ドイツと西ドイツがいっしょになって大変な出来事がたくさんあったときですね。西ドイツの側は、いわゆる自由世界に入り込んでいますからいいんですけど、東ドイツは情報から何から全部統制されていた。その二つが一緒になるということですので、ドイツ人にとっては大変に大きな試練だった。
フランクフルトでは、毎年国際見本市が行われるんですね。書籍の見本市です。各国の代表的な出版社が、今年はこういう本を出したということを世界的にアピールしたいということで集まってくる。日本ではたとえば講談社、小学館、岩波書店などですね。ほかにも二十社ぐらい出しているはずです。
ただし、出展したある書店の代表者が、見本市に行ってショックを受けて帰って来た。日本の書籍出版事情が質的にあまりにもみすぼらしい状態であるのを目の当たりにしたんですね。私はその話を聞いて、さもありなんと思いました。その当時は、日本の出版界を支えていたのはマンガ本です。でも、それさえもなくなったから、今の日本の状態はもっと落ちてます。マンガが売れていた時は、出版社が自分の見栄を張って何か出すこともできた。だけどそれもできないような状態に、今なっていると思います。実際に今の日本の書籍出版事情は、世界的に言って誇れるような状態のものがあるとはあまり思えない、残念ながら。日本人全体に読書する興味というものがなくなってきているから、本屋さんがいい本を出しようがないんですね。
フランクフルトでの連詩
一九九〇年のフランクフルトで、ドイツ側の、特に東ドイツ出身の詩人たちといっしょに連詩をやってくれないかという話があった。谷川俊太郎と僕の二人は、そういうことを言われて、いやだと言うわけにはいかないような状況を感じたんですね。それで、日本の書籍のためもあるけれども、それだけじゃなくて、東ドイツの人たちの状態がわからないから知りたいという気持ちもあって引き受けた。そのころはそういうことについても積極的に興味があった。今は歳をとったから、興味がなくなったとは言えませんけども、やっぱり、そのころよりはちょっと尻込みしたりすることもあるでしょうね。そのときには二人とも行ったわけです。そのときに起きたいろいろな出来事は、僕らは連詩をたくさんやってきたけれども、その中でも、すごかった、あれは記念すべき出来事だったね、と谷川俊太郎ともよく言い合います。
つまり、東ドイツ側にいた人たちが、情報というものをまったく与えられないままで仕事をしてきたということが、重要な問題になっていました。たった今、中東でアメリカ大統領という不思議な人が勝手なことをやって人をさんざん殺していますけど、そのときにも同じ状態で、サダム・フセインが国際緊張を引き起こそうとしていたんですね。東ドイツ出身のガブリエレ・エッカルトという女性詩人は、サダム・フセインのことを気にして、詩の中にもサダム・フセインのことが出てきたりしました。彼女は、年齢は私よりも二十歳くらい下だったと思います。まだその当時で四十代ですね。もう一人は西ベルリンのジャーナリストでもあった男性です。そういう四人で詩を作りました。
大岡氏、二時間の長考
概略を申しますと、この四人が、一九九〇年の十月の三日から六日まで合計四日間、フランクフルトのゲーテ大学の迎賓館で朝九時から夕方の六時まで詩を作り合ったんです。その間に、昼飯を一時間ぐらいとりましたかね。その場所には、みかんとりんごとバナナ、水がおいてある、それだけです。それで朝から晩まで完全に缶詰になって、作り合った。
一人が作っているときはほかの三人は作らないから、ほかのところにいるというわけじゃなくて、その場にいて何かおしゃべりしている。連詩を作る場合は、そういうふうになります。いよいよできなくなっちゃって、どうしても作れないというときには、別室を用意してあって、そちらに撤退してしばらく頭を冷やして考えて帰ってくるという場合もありえますけど。ほとんどの人がそういうことはしないですね。
このときは、僕が一応中心になりますので常にその場にいるわけですけども、ある時、ある回だけ本当にくたびれてしまって、相手が作った詩に僕が答えなければならないというときに、すごく眠くなって、これはいかんと思って起きて、だけどもとても頭が働かなくて、二時間ぐらい長考しちゃった。そのときは谷川俊太郎がショックを受けて、大岡がこんなことになるというのは考えられないから、すごいことだなぁと思ったと言ってました。
谷川はいつでも僕が中心になってやっているので気を楽にしているんですけども、そのときだけはえらく緊張してしまいました。それは、ドイツ側の二人、特に女性詩人のガブリエレ・エッカルトが、始まったときからずっと喧嘩腰だったためもあります。
連詩のはじまり
初めに一番目を作れということになって、大岡が作ったんです。この場合、フランクフルトという場所が場所だから、つまりフランクフルトはドイツ最大の詩人のゲーテが生まれているところですから、そういうことも頭にあって、僕はゲーテのことから始めたんです。二番目をそのガブリエレが受けたんですが、このときすでに僕に対する、それだけじゃなくて、要するにこの連詩なんてものをやっていること自体への挑戦的な態度、つまり、すさまじい抑圧と弾圧に耐えている私たちにとっては、こんな遊びごとみたいなものをやっている暇はないという感じで受けたので、谷川も私も、これはまずいなぁ、こんな人といっしょじゃ大変だなといういう気がしてたんです。
ところが四日目が終わったときに、発表会があって、そのあと、いよいよさよならというときに、涙をいっぱい浮かべて、別れたくない、まだずっとあなたがた二人とやりたいと言ったのはガブリエレなんです。女性は感じやすいということは言えると思いますけど、彼女にとっては、変な言葉を使いますけれど、連詩が「セラピー」だったんですね。
僕らに会った最初の日には、体も何も緊張しきってやっているという感じがはっきりしていた。あとで聞いてみると、我々のような日本にいる人が聞いたら、ぎょっとするしかないような話が彼女の身辺でまさにそのときにもいくつもあった。そういう背景があって、彼女はくってかかるような詩を書いたんですね。
一番と二番をちょっと読んでみます。僕自身の最初の出発の詩ですね。
(詩1)
この町で『西東詩集』の詩人は生まれた
東と西の言葉で僕らが織物を始める朝
テーブルには新しい星座のように 栗の実が
飾られている 緑の葉っぱを敷いて――
栗のいが 陸(おか)にあがった雲丹(うに)
信
『西東詩集』というのはゲーテが晩年に作った、東洋と西洋に両方またがったような有名な詩です。これは、その場の状態をそのまま書いたんですね。そのときにテーブルの上にはいろいろな食べ物が置いてあって、栗もあったんです。そのまま書いて一番目にした。二番目からは、いっしょにみんなで仲良くやろうという感じでやった。そうしたらガブリエレ・エッカルトはいきなりこう書いたんです。
(詩2)
私にはうらやましい あなたたち詩人は
夢中になって積み木と遊んでいる
あるいは――
消えてしまった意味をなぞりながら――
系統樹にイースターの卵をつり下げる書くことで私にできるのは
私を窒息させるものを吐き出すだけ
ガブリエレ「書くことで私にできるのは/私を窒息させるものを吐き出すだけ」、この言葉が出てきたので、彼女はすごいことを言い出すぞと思ったんです。俊太郎さんもまったくその通りに思ったらしい。彼は三番目の詩を作らなくてはならなくて、第三の詩はこういうふうに書いています。
(詩3)
森の中の切り倒された老いた木の切り株の
波紋のようにひろがる年輪があなたの一生
そのまんなかで子どものあなたが泣きわめいている
バウムクーヘンが食べたいのだ
俊太郎これは谷川俊太郎調です、正に。緊張したところをちょっと笑いと、それから情景としては子どもとバウムクーヘン、植物の年輪状の食べ物ですね。それはガブリエレ・エッカルトの「系統樹」とかあるいは「積み木」とか、そういう言葉があったのを受けて書いたわけで、俊太郎さんとしては、まあまあとなだめながら書いたように見えます。その次の四番目を作ったのはウリ・ベッカー、ベルリンに住んでいるかつてジャーナリストだった詩人。ですから僕らの連詩に関心があって、受け答えもうまい具合にしてくれた。そこまで読んでみますと、「バウムクーヘンが食べたいのだ」と谷川が書いたのに対して、それをそのまま受けて、
(詩4)
ケーキを食べたらいいじゃないか、詩の
きらいな人は、今日のお祝いに
四人で一緒に祝おう、おれたちのやり方で
ヒステリー気味の歴史抜きで
公園に出ておいで、友よ、見ろよ……
ドイツ自慢の樫の木に差し押さえの郭公印がぺたっとくっついてるぞ。
ウリ「ドイツ自慢の樫の木に差し押さえの郭公印がぺたっとくっついてるぞ」というのはよくわかりません、実は。ドイツ側の詩人が使う言葉では、ときどきどういうところから出てきたのかわからないなということがやっぱりあります。こういうところが外国人とやるときの連詩の難しいところなんですね。たぶん、自由ということを頭に置いて、自由でないものとしての差し押さえの郭公印ということが出てきているんだと思いますけど。
僕が、そういうことを感じたか、自由と不自由とがどういう状態かということをなにか話したのかもしれないけれど、五番目の僕の詩はそういう状態を受け継いで、支配者である皇帝というものは自由か自由じゃないか。支配されている人は不自由か、それとも自由か。そういうふうなことを念頭に置いていて書きました。
(詩5)
王宮で千人の召使いにかしずかれながら
最後の皇帝は夢見ている、
砂さえ補給してやれば
壜の中で何か月でも元気に動き回っている
砂漠の糞ころがしの大いなる自由を
信つまり、帝王というものはまったく不自由。逆に壜の中で捉えられていても何か月でも平気で元気に動き回っている砂漠の糞ころがしのほうが、そういう国では大いなる自由を享有していると。皇帝は千人の召使いにかしずかれながらでも不自由だということですね。
初めの五つの詩は、そんな感じで、全体の状況の後ろ側には東ドイツが自由な世界に入ってくるということに対するそれぞれの思いがあった。
東ドイツの女性詩人
その後でだんだんはっきりとしてくるのは、このガブリエレ・エッカルトが、はっきりと自分自身の言いたいことしか書かないんですね。連詩というのは、詩で対話するということが基本的にあるのに、僕らと対話をするというよりは、自分の胸に抱えている辛さ、嘆き、そういうものを吐き出すために、この場を利用したという感じがあった。
僕らは、難しいことになりそうだなぁと思って、はらはらしながらも彼女に才能がありそうだということがあって、つきあっていってみようという感じになっていた。
ガブリエレという名前の作品が十一編並んでいるので、それだけをちょっと拾ってみると、明らかに彼女は自分のモチーフだけをずっと吐き出し続けていることがわかると思います。他の三人が絶えずそれに一所懸命合わせて付き合っている。
そういう意味では、連詩というものでもこの場合は他の場合と違って、ガブリエレ・エッカルトという女性詩人、彼女の嘆きと苦しみと、そういうものを吐き出すためにこの場を提供したという感じです。
これは、岩波書店から『ヘルメス』(一九八四年創刊)という同人雑誌を出していましたが、それに発表されました。私も同人の一人で、他には、大江健三郎、磯崎新、中村雄一郎、武満徹、山口昌男。一九九一年一月号のヘルメス二九号です。翻訳は福沢啓臣さん。発表されたときに、連詩についての背景を谷川俊太郎と対談の形で話しました。
ここで谷川と話していることの多くは、ドイツから追われてアメリカへやむをえず渡ってしまった、そういう経歴を持っていたガブリエレ・エッカルトの話だった。そのときに話されたことを皆さんにご紹介します。
祖国からの亡命
ガブリエレ・エッカルトは東ドイツから一九八七年ごろに追われるようにしてアメリカに移住しました。そのときも、フランクフルトの書籍見本市があって彼女自身の詩集も見本市に出たらしいんです。そのために、自分もそこへ行きたいと、東ドイツ政府に意向を示したところが、政府からは前々から思想的に好ましくないと思われていて、この女は、フランクフルトの見本市から帰ってくれば、また政府を困らせるような変なことを書く可能性があると判断されたらしくて、「出て行ってもよろしい」と。「しかし、帰って来ることは君の場合難しいということを覚悟して行け」と言われたんですね。その瞬間に彼女は亡命を決意した。帰ったらどういうことになるのかわからないというのは明らかなんですね。
それで、フランクフルトへ行って、そのままアメリカへ逃げた。ドイツ人は英語がうまいんですね。ところが、このころは、まったく情勢が違っていた。東ドイツ側は英語を子どもに一切教えなかった。外国語の唯一のものはロシア語だった。彼女はフンボルト大学哲学科出身で、そこにいたということは、実は秀才であるということが明らかなんです。秀才であるにもかかわらず、英語はただの一語もしゃべれなかった。
そういう状態でいきなりアメリカへ逃げちゃった。どういう状態で逃げたかということを別としても、アメリカへ移ってからどういう状態で生きていくかということは、ものすごく難しい問題。彼女は、僕らと会ったのはその三年後なんですけど、英語をとにかくものすごく勉強したというんですね。毎日ラジオをずっと聞いて勉強した。彼女の英語は谷川も僕もびっくりしたんですけど、ほんとうにうまい。実にきれいな英語をしゃべる。そんな過去があったということは思わなかったくらいでしたけど。僕らと会ったときには、ミネアポリス大学でドイツ文学をドイツ語で教えているというんですね。
まわりすべてがスパイ
彼女は、ショッキングな出来事にたくさん出会っている人で、反体制詩人ということになるわけです。いろいろと辛い目にあっているわけですけども、最も辛かったのはスパイですね。フランクフルトからアメリカへ渡った間、ものすごくナーバスだった。実はいくつかの経験があったんです。その一つは、自分と親友だった人が弁護士で、その友人に、逃げるとき自分の原稿などを全部託して、これは私の一番大切なものだから絶対にあなたが持っていてくれ、他の人に見せないでくれと頼んで行ったんですね。ところがその親友が、東西の壁が無くなってみたら、実は国家警察の手先だったということがわかったんです。自分の原稿なども全部、その親友を通じて国家警察に知られていたことがわかったんですね。それで非常なショックを受けて、眠れないということがあったらしい。
私たちが会った日の前日には、また別の、自分がかつて親しくしていた人とぱったりフランクフルトで会ったんですって。知り合いと出会えてうれしかったので、急いで「久しぶり」と駆け寄っていったら、相手が「こんにちは」と言ったきり、すっと顔をそむけて逃げていったというんですね。おかしいと思ったんだけども、そのときに、あの人もスパイだったかと思ったという。
東ドイツでは知識人はほとんど全部、自分の知り合いはスパイだと思ったほうがいいというような状態であったようです。特に、西ドイツと合体したときに、東ドイツのいろいろな意味で弾圧を続けてきた上層部の連中は全部首がすげ変わったんですけど、上層部のちょっと下の部分は変わらなかった。ところが実は、その連中は、自分たちは初めから反体制派だったと言って、その情報をコンピュータへ入れているんですって、今までの記録を消して。つまり、自分たちがいかに反体制の側で、東ドイツの政策に反対の動きを一所懸命とってきたかということを、自分たちの記録にしてしまった。そういうデータの書き換えがあったらしい。
東ドイツのある編集者がフランクフルトに来ていて、エッカルトとぱたっと出会った。その人とは仕事の上で親しかったから、私の部屋に来てしばらくいてもいいわということで、置いてやったときにそういう話をしてくれたという。そういう話を聞けば聞くほど、聞かされた側としては神経衰弱のような状態になるのは当然ですね。周りがすべてスパイ、そういう状態でいたわけですから、みんなで仲良くしよう、いっしょに書こうなんて、そういうことを言えるような状態でしょうか、ということを我々に対して真っ先に言ったわけです。
ナチスから共産党員に
彼女とは一週間ばかりいっしょにいたんですけど、その間に彼女の弟が会いに来たんです。弟ともめったに会うような状態じゃなかったわけです。とくに彼女がアメリカへ行ってしまって三年間いなかったから、僕らと連詩をやるためにフランクフルトへ姉さんが来るということがわかったから、弟は大喜びで家族を連れて六百キロ車を走らせて会いに来た。そのときは本当に姉弟でうれしそうだった。
弟と彼女は仲良しだったんですね。だけども、お父さんは、優秀なナチスの党員だったんです。ところが、第二次大戦が終わってナチスがひっくりかえっちゃった。そうすると今度は東ドイツはソビエトの支配下に置かれますから、その間にお父さんは今度は優秀な共産党員になったというんですね。
僕らには学生のときに、こういう記憶がちょっとあります。軍隊で優秀な情報将校だった人が、戦争がひっくり返って一応、平和な日本になった。旧制高校も門戸を開いていろんな人たちが学べるようになってきたわけです。僕は、旧制一高にいたんですが、昭和二十年に戦争が終わって昭和二十二年ごろは旧制高校に入ってくる人の中には、ついこの間まで軍人だったという人もけっこういた。軍人だったというだけではなくて、かなり優秀な将校だった連中がたくさんいました。
僕は中学の四年で旧制高校へ行ったわけで、僕とは十歳近く年の違うおじさんたちも同じクラスにいました。しぐさ一つとっても、実にはっきりしていて的確で、つまり軍隊式だった。その中には熱心な共産党員になった人がけっこういたんです。そのときに僕は印象に残って、いまだに忘れませんけど、なるほどと思った。やっぱり優秀な人はどこへ行っても優秀になっちゃうんだなと思ったんですね。だから、わたしはそのころから政治団体というものを信用できないという気持ちがはっきりついちゃったんですね。
そんなことは単なる一人だけの経験に過ぎませんけども、人間の性質というか、そういうものは、ある場合に優秀な人が逆の場合にでも優秀でありうるということがあって、その場合には団体の中で必ず頭角を現してくるということですね。そういう人にはそのように遺伝子ができているのかなぁ。
そういうことがあったから、ガブリエレ・エッカルトのお父さんの話を聞いたときに、日本でもそんなことがあったかもしれないぞと思ったんです。
家庭の中にも体制の装置が
ところで彼女のうちは難しい問題を抱えていた。それが精神的に大きなトラウマになっていたようです。お父さんはナチスを信仰していたけど、それがあやまっていたと思ってひっくり返って、エネルギッシュにどんどん上層部にとりいって共産党の優秀な上層党員になった。ところがお母さんは、じつに敬虔なキリスト教の信者だったんですね。
キリスト教の信者は、お父さんにとっては許しがたい信仰を持っているということになるわけです。それで、お母さんはお父さんがいないときに密かに家の片隅でお祈りしていたというんですけど、その姿を見て、ここがものすごい問題なんですが、幼いガブリエレ・エッカルトと弟が、お父さんにそれを密告したんです。父親がものすごい勢いでお母さんを殴る蹴るの大変な暴行をする。ところが、母親は子どもたちに対して、あなたたちは実に立派な行いをした、私は間違ったことをしたんだから、お父さんに私が間違ったということを告げたのはいいことだった、と言ったというんですね。こういう教育、装置としか言いようのないような、密告装置が自動的に働いているという感じがしますね。
政府との対立
そういう状態ですから、子どもたちは抑圧、束縛を感じながら育つわけですけれど、エッカルトは優秀な女の子だったから、高校生になったときに秘密警察からマークされる。呼び出しをくって、お前は国家に忠誠を誓うかと聞かれた。もちろん、国家に忠誠を誓います、当たり前じゃないですかと彼女は言ったらしい。文書に署名しなさいと言われて、署名した。それがあとあとひどいことになるんですね。
大学に進んでしばらくすると、秘密警察の手先になれと言われる。思想傾向の悪いやつは、何でもいいからこちらへ報告するように、と秘密警察から命じられたんですね。彼女はそんなこといやですと言ったところが、そのときに出されたのが、彼女がかつて署名した文書だったんです。それでもう手も足も出なくなった。お前はこの誓いを破るのかと、肉体的にものすごい暴行をされたらしい。
結局、どうしてもそんなことはいやだと言って、いきさつを全部公表したんですね、勇敢にも。それで、もうこの女はスパイになる資格はなし、とんでもないやつだということで、それからは完全に、権利も何にもないような状態で、勝手にしろと放り出された。それで、一所懸命、詩や小説を書いた。そういうことでしたから、フランクフルト書籍見本市に彼女が書いた本が出るということになったんだと思います。
父を否定する
つまり、共産党の政策に沿ったやり方でやれば平気ですけど、それに反対の立場をとったらたちまちにしてやられてしまう。マークされると、アパートには秘密警察の盗聴器が必ず置かれる。ボーイフレンドとも付き合えなくなっちゃった。
娘がそうなってくると、優秀な共産党員である父親が、我が家の恥だと、娘に対して脅しをかけた。でもぜんぜん娘が言うことをきかないので、出ていけと親父が言ったんですね。娘が荷物をまとめていたら、隣でもう一人、荷物をせっせとまとめるやつがいた。それが弟。弟とはものすごく仲がよかったから、弟もお姉さんが出て行くなら私も出て行く、あんたたちとはいっしょにいられないと親父に言った。そしたら親父が真っ青になっちゃった。親父は、子ども二人が自分に対して反逆して出て行くことが明らかになったら、世の中にどういうふうに思われるかわからない、まずそのことが恐ろしかった。それからもう一つは弟に対しては非常な愛情と期待を持っていたらしいんですね。それでとてもこれはたまらないというんで、弟とお姉さんと二人に対して、俺が悪かったと言ってわびをしたらしいんです。
結局、弟もそのまま出て行かなかったわけです。その後、弟はコンピュータ関係の最先端の仕事をやっているらしい。東ドイツと西ドイツがいっしょになってからあとは、急にはぶりがよくなったんですね。やっと人間らしい生活ができると言っていた。弟の結婚した相手が西ドイツ出身のお嬢さんで、しかも牧師さんの娘だった。西ドイツの生まれで牧師の娘ということは、東ドイツの政府の側からするととんでもないやつなんですね。それまでひどい目にあっていたらしいんです。ところが東ドイツがひっくり返って、体制が逆転しましたから、今度は突然出世コースに乗っちゃった。子どもも今二人いると言っていました。
お父さんは、孫をほんとにかわいがっている。そういう関係で一応弟と父親は何とか良好な関係を保っているらしいのですが、ガブリエレ・エッカルトのほうは父親とは絶対和解できないと言っている。
隷従する女性
お母さんは親父さんに虐げられているわけですから、母親に対しては子どもは優しく対するはずだったんですけども、どうもお母さんのことは二人とも軽蔑していると言うんです。なぜならば、あのひどい父親に盲従していることが耐えられないと。ですから、父親を否定し、母親を軽蔑し、両方ともだめ。そういう状態ですから、家庭環境は緊張に満ちていて、神経衰弱になるのは当然だという感じがしました。
日本の女の人はどうですか、男に盲従するどころではなくて、虐待までされていると聞いているけどと言われたから、とんでもないと言った。そんなことはないよ、昔はそれに類したこともちょっとはあったかもしれないけど、それでも、絶対にそんなことはない、と。日本の女のほうが今ではずっと強いということは言わなかったけども、日本の女は男に対する立場も今は自由になっていると言いましたが、彼女はあんまり納得しなかったですね。不思議でした。
つまり女は隷従しているんだということがはっきり刷り込まれているんですね。日本ではこういうことはあまり起きないことかもしれません。こういう背景を持った女性と僕らは知り合ったということは意味があったようないう気がします。向こうの女の人の優秀さということも印象的でしたし、いろいろな意味で連詩をやってみると知らなかったことがわかる。東西ドイツがいっしょになるというその瞬間に僕らはフランクフルトにいたという事実があって、印象的な出来事でありましたね。
独立しながら全体としてのハーモニーを
フランクフルトの連詩でもう一つ印象的だったのは、ウリ・ベッカーという男の詩人です。この人はその当時で四十代だったんですけど、この男がなかなかよかったので、もう一回、静岡連詩にウリ・ベッカーを呼びました。それは、連詩の精神というものをよく理解しているなと思ったからなんですね。
連詩の場合、四人なら四人の詩が作られるたびに僕が一応見て、問題がなければこれでいいよ、ということにするんですけど、一度、これは問題だと思われるようなことがあったんです。前の人が作った詩に対して、べったりくっつけて自分の詩を作ってしまうと、前の人の詩が独立した一つの詩だったのに、二人で一つの詩がそこにできてしまう。それは前の人が作った詩に対しても失礼千万なんですね。前の人の詩の効果を半減させてしまいます。ですからそういうことは絶対に避けなければいけない。
ドイツの詩人は論理的な整合性を重んじるのでしょうか。前の人のやったものにつけて、それをさらにいいものにしようと思うらしいんだな。前の人が作った詩と同じような質のほかの詩をつけちゃう。連詩としては、対立するのはいいんですけど、べたづきされるのは一番まずい。
連詩では、一人一人がそれぞれ別々だということがあって、それにもかかわらずハーモニーを持っていて、全体としていいものであれば成功、ということになる。誰かのものにべたっとくっつけた場合には、これはよくないよということは言ってあげないといけない。そういうことを言う役割は、全体を統率する形にさせられている僕なんです。とてもいやなんですね。相手が一所懸命作った詩、でも見たら前の人とべたづけになっている。こういうときに、君これはだめだというのはとても辛いんですよ。ドイツ人でもフランス人でも何国人でもいやです。日本人もいやだけど、日本の場合には、そういうことはちょっと言えばすぐにわかって、ああそうですか、変えましょうとなるんだけど、外国人は必ずしもそうはいかない。おれはいいと思うと相手が言い出すと、だめだというのは大変に難しい。
そのときに、裁き手である私なら私の人格全体が問われるわけです。僕がだめだと言ったのに、これでいいと思う、と相手が言った場合、納得するように説明しなければならない。このときは、ウリ・ベッカーがつけたものが二回ぐらいそういものがあった。ウリに、ちょっと悪いけど、君のやったのは、これ自身としてはいいんだけども、前のやつとくっつき過ぎていて全体のハーモニーからすると逆に崩しているんだと言ったら、初めは眉毛が上がりましたね、がっと。うっと上がって、谷川俊太郎も、あ、まずいかなって思ったと言っていました。でも、そのとき、じっとこらえて、「わかりました」と言った。もう一回それをやりそうになったから、またこれもまずいよと言ったら、そのときは、すぐに「やっぱりまずいかな」と言いながら変えましたけどね。彼はそれからあとはそういうことはしなかったですね。ずっと嬉々としてやりました。それで、心の状態としてよろしいと思ったから、静岡の連詩に呼んでみようと。
連詩というのは対決、対決ではなくてなんだろうな、いろいろ合わせるわけですね、お互いに。自分がもっている技術を一所懸命使い、相手の技術をよく見ます。そうすると才能というのは一目瞭然にわかります。私がこれは才能があるなぁと思った人で、あとになってその才能が輝き出なかった人はないですね。人と人とが出会ってなにかするということは、実際にやってみればわかる。やらないからみんなわからない。やらないで、外側でああでもないこうでもないと言っている。それが今の日本です。
フランクフルト連詩でも、やりながら僕は筆でずっと書いていったのですけれど、それをちょっと開いてみましょう。(巻物を開く。)かなり長いですよ。この紙は、神田で買って持って行ったのです。それを糊で貼って。僕にとっては十何年ぶりに見るものですね。
それでは、今日はありがとうございました。
二〇〇三年三月二十八日 十八時〜二十時
於 東京増進会御茶ノ水ビル六階