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月例フォーラム/平成15年1月

※平成15年1月17日に行われた第九回月例会の記録


連詩(1)



中国の詩と短歌形式

 今日は、十二月に途中までだった連詩についてお話しします。日本の詩を考える上で、大事な問題にふれてきますから、今日は連詩というものの概略をお話しします。

 連詩がどういうわけで始まったかというきっかけをお話ししますと、歴史的に言えば、はじめに連歌とか連句というものがあります。連歌、連句、連詩、この三つには連関がある。

  日本の詩というものを考える上で何が一番大事か、ほかの国の詩とどこで日本の詩は違うのか、と考えると、日本の詩にはある種の特殊なもの、形があります。それが、この「連」ということばにかかわっているわけですね。「連ねる」ということですね。

 実は、中国にもあったことばです。中国のことばは、この「連ねる」ではなくて、「聯句」が昔からあった。中国の詩の歴史の中にも、はっきりありました。中国の詩は、五言(ごごん)とか七言(しちごん)。五言は五つのことばが一行を成しているわけですね。これは漢字ですから、数ははっきりしている。例えば五言絶句、「絶句」というのは四行で一つの詩になっているという意味です。四行で詩になるということは、一番短い詩ですね。中国の詩で、一番日本人によく知られて、しかも親しまれていた詩の形式は、五言、あるいは七言絶句ですね。

 その五言絶句は五つの字が四行あるわけで、二十字の漢字があります。二十字で一編の詩。日本の短歌は、三十一文字(みそひともじ)といって、三十一音ですけれど、言ってみれば、五言絶句を模倣したんですね。形式がきちんとできあがる段階で模倣したんでしょうけども、やまとことばを使うために、漢字とは全然違う詩になります。

  日本の一番基本的な詩歌の形式である、五七五七七という短歌形式に決まっていくわけですけど、それは中国で言えば、五言四行の詩とか七言四行の詩とかになりますね。ひらがなで一二三四…三十一音というのと、全部漢字で書いて、それが二十字あるというものとでは、明らかに、中国のほうが意味がずっと多くなりますね。

  しかし、そういうことは不問に付して、日本人は短歌形式を愛しました。それは、意味からすれば短いことばでしかないんだけれど、そこにこめられている「あいうえおかきくけこ」音の響きがよく作られている短歌の場合には、一行の短歌にすぎなくても、意味としては二行三行にもなるようなことばが作れるということがわかったんですね。短い詩の形式だけども、そこにたくさんの音やおもしろい響きがある。音によって触発されて出てくる意味にプラスして、イメージが豊かになる。そういうことを利用し、楽しむということができるようになった。



連歌と連句の歴史

 日本の場合は、万葉集から始まって、古今集、新古今集という時代を経て、現在の短歌にまで至る、膨大な歴史の流れを作り出したわけですね。五七五七七にだんだん形が整ってくるのは、日本人が整然とした形式を重んじたからです。形式があるから、短い詩が、意味としては大きく増幅されるということに気がついた。それで、短い詩なのにもかかわらず、延々と千五百年以上続いているわけですね。

 形式という点で見れば、日本人の大和言葉よりもはるかに精密な形式は、もちろん中国人の漢字文学にあります。その端的な現れが、中国人の好んできた対句(ついく)形式にあります。対句とは一対になるように句を二つ並べる修辞法です。語の並べ方は同じ、意味は対(つい)になるように作られた二行の文句を聯句(れんく)と言います。

 そういう聯句形式のものは、例えば、中国、台湾などで、お寺の門に、右に長い板がぶらさがっていて、そこに字が書いてある。左を見ると、同じ長さの、ぶらさがっている大きな板があります。そこに詩句が書いてあります。それは大体七言律詩の一部のような形で、二行で一対をなしているものを使っていることが多いと思います。七字(七言)二行になっている。それが聯句(「れんく」と言ったり昔は「れんぐ」と言いましたが)で、並べて鑑賞するということが中国人によって愛された形式です。

 要するに、AとBが対になっていて、AとBの間には、明瞭な対峙関係がある。Aのほうに、例えば色で白、香で花の香、とあると、Bのほうでは、白に対して対比的に黒をもってきて、それから香も美人の香とか、そういうふうに対比するんですね。対比することによって、たった二行のものが、大きな広がりをもってくる。対比するということはとても大事なんですね。

  音楽でも美術でも、対比が大事な形式上の重要な要件になるということは、ご存知の通りですけど。詩においては、これはほんとに眼目です。そういうふうに言ってもいいくらいだと思います。

 そういうものが日本にも伝えられて、愛されてきた。もちろん、やまとことばは、漢字の字とは全然違いますから、やまとことばでそれに匹敵するようなものを作ろうと思って、いろんな工夫をした。それが、日本の詩歌でいろんな形式が発生してくるかなり重要なポイントですね。

  そういうものを愛して、それをなんとかうまく使って詩歌を豊かにしようと思った、その一つが今これからお話しする連歌、連句です。

  連歌は、だいたい平安朝の終わるころには作られていた。もちろん単独に試みられたのは結構古くて、例えば、万葉集を作る上で重要な役割を果たした大伴家持が、連歌の小さな試みのようなものをやってるんですね。ですから、起源は七百年代の半ばごろ、八世紀です。そのころから連歌の芽生えがあったんですが、それがやがて、普及してくるわけです。普及すると言っても、平安朝に入って貴族階級が和歌を独占するようになっているわけですから、階級の低い人々にはまだ伝わっていない。伝わっていないだけで、やる能力はみんな持っていたわけですけど。そういう人々もおもしろがってやっていくようになって、貴族階級にも、タレントが出てくるわけですね。そういうことを踏まえると、連歌は、歴史的には、平安朝が終わったころに、盛んになってくると考えていいでしょう。

 

戦国時代の連歌の隆盛

 おもしろいのは、連歌、ちょっと下って連句が新しく勃興してくるわけですけど、そういうものが盛んになった時代というのはだいたい平和ではない時代、戦乱の時代が多いんです。それは、うがって言うと、連歌をやればたいていの人の気持ちがわかるという理由もあったんでしょうね。

 例えば、花の句とか魚のこととかを連歌の一節として歌うとしますね。そういうほんの短い一節でも、そこにそれを作った人の気持ちが出てくる。この人はこういうことを感じるんだなということがわかるんです。そういうことがあるから、人の気持ちを見るにはいいんですね。

 みんなと一緒の場で作るというのは、自分で密室で作っている場合と違い、自分が、ぼけの花ならぼけの花について書くときに、次の詩句を相手に渡すためには、相手にとってわかりやすく、しかも自分の独自性がちゃんと出ているような短い詩句を作ることが重要になってくる。相手も、自分の作ったものを見て、こういうつもりで作ったなということを考えながら、今度はそれに対してどういうふうに答えようか、相手が作りやすい状態で、しかも特色がよく出ている句をどうやったら作れるかと考える。必然的に、前の人が作った動機まで遡って、この人はなぜここでぼけの花を出したのかな、と考えるでしょ。ぼけの花を出したのは、何か理由がある。その理由がこれだろうって思ったら、それに対してうまく答えるか、それともそれをわざとはぐらかすか、そういうふうなことを考える。それによって次の三番目の人に受け渡す。

 つまり、連歌あるいは連句では、必然的に相手の心理状態まで遡ってみるということが生まれてきてしまうわけですね。戦国時代のように相手が何を考えているかわからないという場合は、相手の気持ちを推し量るためにも、とてもいい方法であったわけです。

 いっしょに連歌を作る場を生み出すわけです。連歌というのは、場合によっては仰々しい礼儀を守ったやり方をするし、またある場合にはくだけておもしろがってわいわい言いながらやる場合もある。いずれにしてもいろんな形で人との接触が必要になる。人と接触することが連歌というものの最も根本的な条件ですね。それがあったから、連歌というものが戦乱の時代には流行った。以上はぼくの推測ですけど、まずあたっていると思います。

  場合によっては、かけ離れたところに住んでいる人をわざわざ呼んで、ご馳走なども、とても気をつけて作っておく。周りにも気の利いた人とか、美しい女の人とか、あるいは気の利いた男の召使とかをそろえておいて、いい気持ちになってもらって、それで始めましょう、と。そうすると相手は、気持ちが緩んでくる。連歌は、やっている相手と雑談もしながらやりますから、そのときにとても大事なことをもらしちゃったりすることもありうるわけです。

  連歌の作品を見ていると、ときどきかなり謎めいた言い方が出てきたりするんですね。これはもちろん、常にそうだということはありえないけども、よくわからないというときは、ちょっと考えたほうがいいですね。これは何か含むところがある。有名な人で言えば、能の世阿弥。あの人は、十代の初めのころから連歌については修練していたらしいですね。実作はほとんど残っていませんけれど、それを見ると、いろいろな学者はほめているんですけど、ぼくはよくわからない。つまり、謎めいているのです。だから、それをとてもすばらしい作品だほめている人は、歴史家としてはすごいけども、詩歌はわからない人だという感じがすぐわかる。連歌、連句の読み方を見ただけで、その人の学者としての力量がわかるということもあります。

  具体的な事実として、戦乱の時代に連歌が盛んになっている。それは、連歌の単なる一つの効能に過ぎませんけども。連歌というのは生きているんですね。そういう形で、日本の歴史の中では、お互いに作り合うこと、一人の人が密室の中で頭をしぼってすばらしい和歌を作ろうと思って作るというんじゃなくて、相手との掛け合いで行われることがあった。相手との人間関係がありますから、作品も思いがけないものが出てくる可能性があるんですね。実際にはそういうことはやってみれば誰でもわかります。日本人にとっては、連歌連句は、単なる一行の単独の短歌とか俳句とは違ったおもしろさがあって、生き生きとした日本人の心の状態が反映しているということがあるのです。それが、日本の詩の歴史の中で、実は重要な部分を受け持っていたんですね。



近代の詩歌のすがた

 ところが、近代以後の文学作品では、自我意識を強く主張しますから、ほかのやつといっしょにやるなんてとんでもない、ほかのやつに自分の気持ちの奥底まで見られるなんてとんでもない、ということがある。これは、近代以後の詩歌、あるいは芸術一般です。近代以後百年以上の歴史の中では、日本人が長い間生活の中で実際楽しんでやってきた連歌的なるものを、そこで生き生きした人間関係が形作られてきたにもかかわらず、ぱっと捨ててしまった。

  だいたい明治の二十年代ごろからその傾向ができて、三十年代になってはっきりと線が確立されてきたわけですね。その発端にいる人の一人は正岡子規です。もう一人は与謝野鉄幹。この二人がいて、和歌の歴史ががらっと変わったんですね。正岡子規の弟子の中からは俳人も出てきた。特に、弟分だった高浜虚子、この人が明治の末ごろから作り出した俳句作品は、優秀な俳句作品なんですね。五七五という短い形式なのにもかかわらず、正岡子規と高浜虚子の俳句は、個性がはっきりわかれています。そして、虚子の場合にはそれが新しいグループを作るきっかけになっていって、「ほととぎす」という巨大な集団になり、大正時代から昭和時代の半分以上は、高浜虚子の流れに沿って俳句は動いてきた。

 そうすると、それに反逆する人たちがときどき出てくる。一番はっきりしているのは新興俳句というグループです。これは昭和十年代に始まって、わずか六、七年で、もう崩壊してゆく。その理由の一つは戦争中だったものですから、弾圧されたんですね。新興俳句というのは、俳句と言えばおじいちゃんおばあちゃんが作るお年寄りの楽しみと思われていたのが、若い連中が俳句によって現在の社会の関心事を詠めるんだということを言おうとして、ある程度新しい俳句を作った。ある程度としか言えないけど。

  その大きなモチーフは、社会それから都会、都市生活ですね。都市生活を詠むと、当然そこにサラリーマンとか工場とか学校とかが出てきます。そういうことは、それ以前の、高浜虚子の創造したような俳句、つまり花鳥風月俳句の中では出てこなかった。戦争とか銃とか鉄砲とか、そういうものも高浜虚子の系統の俳句では出てこなかったんですね。ところがそういう現代社会の関心事をみんな詠うようになって、たとえばお給料とかいうものも詠い込んだ。

  それらは、作る人々の中に、新しい意識を作り出しますね。俳句を作っている人たちの社会的関心事を詠み込むようになりますから。そうすると、昭和二、三年のころに盛んになったプロレタリア文学、マルクス主義とか、アナーキズムとか、そういう思想で頭をいっぱいにしているような若者が、俳句でこういうことを詠めるんだ、と思ったから、俳句の世界にわっと入ってきたんです。そのために弾圧が厳しくなった。

  その俳句は一見何でもないように見えるけど、実はこの中には何かが詠まれているのではないか、と探りを入れてくる特高警察がある。特高警察は、書かれているものの裏側に謎を探るということについては、特別に訓練をされている。その連中が、俳人はぜんぜんそんなことを詠んでもいないのに、お前こういう気持ちで詠んだんだろうと探りを入れてくる。結局、その弾圧で、「三高・京大俳句会」の関係者たちの十余人が次々に検挙されてしまう。かれらの運動は、大まかに言ってリベラリズムを主張したものですが、当局側はこれを人民戦線的イデオロギーにもとづいた活動と見なし、治安維持法違反の容疑で次々に検挙しました。それが京大事件と言われているわけです。

  そういうことがおきたら、たちまち運動というのは下火になりますね。相手は、こっちが思ってもいないようなことで挙げてくるわけですから、不気味です。それでみんな萎縮しちゃって、新興俳句の運動は根絶やしになります。そのために社会性を意識したような俳句はその後当分の間、だめになっていくんですね。そして、高浜虚子の系列がずっと栄えた。いまだに「ほととぎす」というのは厚い雑誌ですね。



連歌と連句の形式

 連歌連句の話に戻ります。二人なり三人なり四人なり五人なりで、集まってお互いに句を作り合う。それが五七五だけでみんな出しあうならば、お互いの句をいいですね、悪いですね、となるだけだけれど、五七五をある人が作ったのに対し、次の人が七七とつける。三番目の人がまた五七五と繰り返します。四番目が七七。そうすると五七五七七、五七五七七、五七五七七、というふうになって、それを横並びにずっと作っていくと、一つの流れが出てくる。その流れが出てくるのが連歌というものです。これは連句もそうなんです。

 連歌と連句は、五七五と七七を並べるという意味では全く同じなんですね。ただし、連歌のほうは、形式的に言うと、百句まで続ける。百やると、だいたい退屈極まるものになる恐れが多いわけですけど、平安朝のころから戦国時代までは、だいたい百句でやる連歌が作られてくるわけです。

 やがて、趨勢が少し変わってくる。もっと短いものでおもしろいものをやりたいということになってくる。その結果、次に定型的に出てくるのが、三十六句……にいくまでにはいろいろあるんですが、一応、三十六句という形がだいたい定着するんです。それが江戸時代の初期ですね。室町時代のころには、連歌がまだ作られていて、それがだんだん勢いが衰えてくるのと入れ代わりになって、連句というものに転じていくわけです。

 形式的には同じなんですが、そこに意味付けがいろいろあります。連歌と連句の違いは、細かく言えば、いろいろとあるんですけど、ぼくは学者でもないし、説明するのは得手ではありませんから、一応、形式的に言うと、連句は三十六行で終わりにする場合が多い。三十六行というのは、三十六歌仙という、歌がうまいと言われている人たちにちなんでいて、歌仙形式と言います。これが一番、オーソドックスでクラシックな形式。

 さて、最初の五七五、この句を「発句」と言う。「はっく」ではなく「ほっく」と言います。その脇について、いわば発句を補佐する句を「脇句」と言います。「脇句」の次にまた五七五がくるんですが、これを「第三」と言います。この三つ、五七五、七七、五七五、これが歌仙の中で一番重要な位置にあります。これを務めることができるというのは、七、八人でやったりした場合は、この三人が特にその場で一番重んじられる人々。発句を作るのは、お客さんなんです。それから次の七七をつけるのは、おもてなしする側のご主人。それから第三というのは、これがうまくないとこれ以後がだめになっちゃうという意味で大事なんですね。

 発句というのは丈高く、すーっと、誰が見ても、いい句ですね、というのを作らなければならない。脇句は脇ということばどおり、発句に寄り添っているわけですね。発句に寄り添って、でも、べたっとくっつくんじゃなくて、第三に向かって発句と脇句の二句を開いていく形になっている。発句のよさを自分で受け止めて、第三のほうへ向かって開くという、大事な位置ですね。

 第三というのは、脇句までの二つを受け止めて、さあこれからは今までの二つの重々しいものと違って、がらっと変わりますよという勢いを見せなきゃいけない。だから第三では、形式としては、「て止め」と言って、「〜して」とか「〜にて」とか、「て」で終わるのが決まりですね。あるいは「らん止め」です。この二つのどちらかにだいたい決まっているんです。「〜にて」と言うと、当然、それじゃあどうするのって思うでしょ。「て」という助詞は大事です。そういう決まりが、作る上ではいろいろあるんです。

 第三までのところで、だいたい歌仙形式の連句の行方がある程度見えてくるんですね。もちろんその辺で、おしまいの三十六句目あたりがわかるなんてことはありえませんけど。しかし、なんとなく、その勢いがついていると、第三、第四、第五というのを付けていく人々が、その気になってやり出して、進行がとてもよくなるということがある。



ひらがなの意味と連歌

 要するに、日本の詩の歴史の中では、連句を重んじてきたということがある。ひらがなは、意味としては量が少ないけれども、連歌連句のようなものになると、ぜんぜん違ってきますね。応答していくと、漢詩のような漢字で書かれたものの場合は、相手に受け止めてもらうためのものとしては、意味が逆に多すぎるということがある。多すぎちゃって、動きがとれない。ところが、日本語の場合には、だいたいひとつのことしか言えません。二つ以上言うと、詩としてはつまらない。第三で跳ね上がる勢いには、小さなきっかけが必要で、どーんとたくさんの意味があったら、飛び上がろうとしても飛び上がれないから、どすっと落ちます。ひらがなの持っている軽やかさ、意味が薄い、ということが、集団で作る応答形式の詩歌では、逆に有利なんですね。

 わたしは、やっているうちに、このことが重要だと思うようになった。一行一行の希薄さこそが、集まってやるということになると、支え合っていって強固さになっていく。構造体ができるんですね。このことは、日本の詩の大切な原理だと思います。日本の詩歌において連歌とか連句というのがあったにもかかわらず、それをすぱっと明治以後やめてしまったために、大きな思い違いをしてしまったところがある、とぼくは思っているんです。お互いに自分の言いたいことだけ言いつのるという歴史がずっと続いてしまった。

 たとえばいい例は、現代詩という形式です。現代詩は明治の、さっき言った正岡子規あたりの時代から発生して、新体詩とか近代詩とか呼ばれてきて、昭和の戦後時代になると現代詩と呼ばれている。その現代詩の現在の状態は、お互いに見ても何が書いてあるのかよくわからない。よくわかる詩というのをばかにするという不思議な傾向さえできてるんですね。それが今から三、四十年前に生じて、そういう風潮から生まれてきた人たちがやってますから、詩で意味がわかるなんてことは、意味がないと思っている人もふえているように思います。しかしそれでいいのだと確信しているわけでもないらしいね。

 
『Renga』と連詩

 それで私は連詩というものを始めたわけです。連歌連句の伝統のある日本人が、そういうものをすっかり忘れてしまったということは、大変に大きなマイナスではないかと思っているから。『櫂』のグループでは、谷川俊太郎は連詩に興味を持っています。連歌連句のあとを受け継いで連詩というのをやったらどうか、とぼくが言ったときに、彼はそれは大事だからやろうと言って。谷川はぼくといっしょに外国へ行って何度も作っています。でも関心がある人とまったくない人、はっきり分かれるというのは、おもしろいことですね。

 今のところ、一九七〇年の初めからですから、三十四、五年前から、ぼくらの連詩は始まりました。それとまったく同じ時期に、メキシコ人の詩人オクタビオ・パス(Octavio Paz 一九一四〜一九九八)、パスさんはノーベル賞をもらいましたから(一九九〇)有名な人になってますが、このパスさんをはじめとして、ほかのヨーロッパ系の全部で四人の詩人が、『Renga』という題の詩集を作ったんです。これは日本の連歌からヒントを受けて、ソネットという西欧の定型詩の形式を使っている。ソネットというのは十四行詩。四四三三という行数。

 十四行詩というのは、形式としては、西洋人にとっては古い懐かしい形式なんですね。ルネッサンスのころから盛んになってきて、特に恋愛詩としてたいへん愛唱され、作られてきたわけです。あるいは四四三三だけじゃなくて、三の代りに二行にしてみたりする場合もありますけど。

 これを使うと、四人が、ちょうど四つに分かれるんですね。順番を次々に入れ替えながら、四四三三でやる。一番最初、パスが四行を作ったら、その次がサングィネティ(エドゥアール・サングィネティ)というイタリアの詩人がその次の四行を作る。それからあと二人(フランスのジャック・ルボー、イギリスのチャールス・トムリンソン)が次の三行三行を作っていくというふうに、お互いに詩を作り合っていって、たくさんのソネット形式の詩を作った。

 オクタビオ・パスは日本の文学に関心があって、特に松尾芭蕉を尊敬していまして、『奥の細道』は、スペイン語にはオクタビオ・パスが訳しました(一九五七)。日本語はできませんから、日本人の林屋永吉氏と共同で訳したんです。それで、日本の詩歌に連歌というものがある、これは西洋人には、たいへん興味あるものだということで、その形式でさっきの『Renga』という詩集を作ってみた。これが一九七〇年だったと思います。パスたちがそういうものをやったのは西洋の歴史における日本の影響の、顕著な例であるわけです。それは大変に読まれて、英訳や仏訳もされています。ちょうどその頃にぼくらも連詩というのを始めていたわけですね。

 それでは、ここで、頭を冷やすために少し休憩しましょう。

(休憩)


なぜ連詩をはじめたか

 ぼくの、『連詩の愉しみ』(一九九一)という岩波新書から出た本があります。もうだいぶ前に出まして、売れなかったと思いますけど、この本出しておいてよかったなと思います。ずいぶん言いたいことを言っていますから。その一部分を、奈良さんにいつものように読んでいただこうと思います。

 ぼくはこの本は「書いた」のですけど、スタイルはおしゃべりことばです。えらそうな内容のことを書くときに、スタイルもえらそうにするというのは嫌いなんですね。日本人のものを書く人たちは、論文みたいなものはものすごく難しく書く。あれは大嫌い。わかるように話してくれ、といつも思うんですけど。

 それでは、いくつかの章の部分々々を読んでいただきます。先ほどまでお話ししたことに多少かかわりがあると思います。

 (朗読)

 芭蕉も蕪村も、「なぜ私は歌仙を巻くか」という問いを自らに発することはなかったのではないでしょうか。仮にそう問われれば、彼らは「なぜなら、それこそ俳諧だから」と答えたでしょう。そしてそれはその通りでした。かつてある過激なロマン主義者の文芸評論家(保田與重郎)が愛用した古代日本の神典の用語を借りていえば、「歌仙を巻く行為と俳諧そのものとは同殿共床(どうでんきょうしょう)」だったからです。

 しかし今、「なぜ君は連詩を巻くか」と問われても、私には「なぜなら、それこそ詩だから」とだけ答えてすますわけにはいかないものがある。この不充足感は胸にこたえます。連詩という形式も不幸なら、現代における詩というものも不幸だなと思います。というのも、私の連詩に対する関心は、現代における詩の作られ方・読まれ方に対する疑問と表裏一体のものとして生まれているからです。連詩の制作と詩そのものとは、まさに同床異夢の関係で結ばれているのだともいえます。(※同じ寝床にいっしょに寝ているという前の意味と反対で、同じ寝床にいながら夢は別々な夢だということです。)

 詩と名づけられたものは今もたくさん作られ、発表されています。雑誌にも新聞にも本にも、詩は相変らずたくさん掲載されています。たくさん作られて文字になり、本になっている以上、それらを読んでいる人もいるはずです。しかし、詩人の側からすると、どこに自分の詩の読者がいるのか――もっと具体的に言えば、自分の詩がどんな人の心の上に落ちていきつつあるのか――濛々たる煙霧に閉ざされてよく見えないというのが大方の実感でしょう。

 もちろん、作品とその読者の関係は常にきわめて隠微なものです。昔だって、どこに自分の詩の読者がいるか、わかっていた詩人は少なかったのです。また、別の面から言えば、読者の名前がいちいちはっきりしていてその頭かずまできちんと把握できているような詩人には、ろくな詩人もいなかろうというのも事実です。

 しかし、それにもかかわらず、現代の詩人、すなわち一九七〇年前後を境にして新しい社会環境に取巻かれることになった私たちの詩人すべてが、一般的な意味での読者像の不明確さとはまた別の、読者との深刻な隔絶という事態に直面するようになっていると思われるのです。私はこれを特に、一定の形式を持たない現代詩を書いている詩人たちの場合について深刻に考えています。

 それはとりも直さず私自身に関わる問題であるわけですが、ここ二十年ほどの間に私の中で形づくられた観察からすると、次のような顕著な傾向が日本社会に生じています。すなわち、現代日本の広範な層の人々は、物事に接するに際して、ちょうどTVチャンネルがボタン操作ひとつで一瞬にして合うように、何らかの意味であらかじめぴたりと自分との間にチャンネルが合うことが予感される対象に対してしか、進んで接触しようとしない傾向が確実に強まっているということです。

 過去十年以上前から、詩歌の世界で俳句、ついで短歌が、一種のブーム現象を見せているのは、主としてそのためでしょう。俳句形式、短歌形式は、こちらが選べばすぐに応答してくれる、チャンネル番号の明確な形式として人気を盛り返したのです。どこへ自分の形式感覚のチャンネルを合わせていいのか簡単にはわからない現代詩を、敢えて読む対象に選び、その上で自分の好みの特殊なチャンネル数を備えた詩人を探し出すだけの忍耐力と寛大さを持った読者は、たぶん二十年前にくらべたら二十分の一、三十分の一に減ってしまったでしょう。それだけの努力をするくらいなら、むしろ自ら書く方に廻った方が楽だという考え方の人が、これもまた二十倍、三十倍にふえたと思われます。

 これは冗談とばかりは言えないことで、実際、今は本を作ることもずっと簡単になったのです。ワープロの普及によって、自家印刷の本は今後飛躍的に増加するでしょう。その結果、だれが読むのか作者自身にも見当がつかない本、いわば盆栽作りのような楽しみのための本がふえてゆくことになるでしょう。

 多くの人が、何ごとによらず混沌よりは整斉を好み、未完成で不定形なものに賭けるよりは安定感のあるレディ・メイドを選び、チャンネル番号がはっきりしているように思える文化装置に群らがる傾向を示すという現象は、より大きな枠組の中で考えるなら、私たちの社会のオートメーション化が随所に進んだ結果、人間自身のオートマトン化が知らず知らずに進んでいるということの反映でしょう。作用・反作用の関係は常に可逆的なものですから、人間がオートメーション機械を次々に発明し、利用しているうちに、人間自身の自動人形化も進行していくのです。近ごろ発生件数がうなぎ上りになっている、動機のきわめて稀薄で衝動的な未成年者の殺人事件は、そういう社会が生み出す論理的・病理的帰結ではないでしょうか。

(朗読終わり――『連詩の愉しみ』 28〜32ページ)

 どうもありがとう。ぼくが連詩というものを始めた根本的な理由の一つは、今、読んでいただいた通りなんですね。要するに我々は、誰に向かって語っているかということがわからないことを今やっている。これは、ぼくの実感です。それに対する抵抗の一つとして、連詩というものを考えた、かっこよく言えばそういうこと。続けてまた別のところを読んでもらいます。

(朗読)

 そこで連詩の問題になります。

 私はなぜ連詩を作るのか。その動機の肝心な点は何なのか。答えはもうすでに書いてしまっているようなものですが、煩をいとわず書けば次のようなことになるでしょう。

 複数作者が一堂に会して作る連詩という詩の形式は、参加者一人一人に対して、単に作者であるのみならず、同時に他者の詩に対するきわめて親身で敏感な鑑賞者・批評家であることを要求します。

 この鑑賞者・批評家は、一座の参加者である以上、本質的には一瞬の切れ目もなく、作者として存在しています。ある参加者が仮に苦吟を強いられ、待たされている一座に白けた時間が流れ始めたとしても、一旦彼が詩句を作りあげた瞬間、今まで傍観していた次なる順番の人物の立場は一変し、脳髄はいきなり自分の前に置かれた数行の未知の詩句に対して鋭敏な鑑賞力を働かせつつ、同時に作者として自分の詩をこれに付けてゆく作業に取りかからなければならないのです。

 連詩全体の生き生きした進行が保たれるためには、一人一人が自作をも含めて全員の作品を常に柔軟に鑑賞する力を養い、時には他の参加者の作品に干渉して修正することさえも辞さないほどでなければなりません。共同制作の場における「協力」の真の姿は、そういうところにあるとさえ言えるでしょう。

 連詩とは、自分の書きたいことを書いたあとは知らぬ顔という一人よがりの態度のまさに対極点にある詩作方法です。これは必然的に、精神生活をある決まったチャンネルを通して安直簡便に営もうとする態度とは相容れません。多チャンネル同時全開式なのです。

 私はこの項のはじめに、連詩という形式も不幸なら、現代における詩も不幸だと思うと書きました。連詩が不幸だとすればそれは、連詩が発生的に、上述のような現代社会の精神傾向を否定的な動因として連詩自体の中にかかえこんでいるからだと言えるでしょう。

 けれども、それが不幸であるといえるのもそこまでです。なぜなら、連詩は構造的に、その参加者各人が相互に積極的関係を結ぶことを本質とするものなので、不幸という、単独な個人にふさわしい静態的状態は、連詩の実行過程では、いやおうなしに乗りこえられてしまうからです。私たちはここでは、形式それ自体の必然によって、他者と創造的相互干渉の関係を持つことになるのです。

(朗読終わり――『連詩の愉しみ』 35〜36ページ)

 どうもありがとう。

 今、読んでいただいたところは、本日お話ししたことの繰り返しのようなこともありますけれど、繰り返しながら意味を深めてもらったような気がします。ちょっと冗談めいた話になりますが、やっぱりぼくは文章のほうがうまいですね、しゃべるより。文章を読むとすっとわかると思いますね。

  今日の話としては、連詩というものをなぜ始めたか、なぜそんなことをやらなくてはならないのか、ということと、それは、現代の時間ではなくて、むしろ未来に向かって自分を開いていくことに多少とも関係があろう、ということからきているということです。


連詩的態度の意義

 こういう試みを、現代詩を書くような人々の多くは、白眼視しているようですね。そういうものをやっている人間は、自分たちとは違う一つの枠を作って、そこで閉じこもっているというふうに見えるんですね。ですから、連詩をやるということは、そう言っただけで、それ以外の連詩に興味ない人に対しては、「あんたたちとは違うよ」と言っているように思うんですね。ほんとはそうじゃないんです。だけども、そう言っているように思っちゃう。これはとても不幸です。

 私自身は、実は、人見知りが激しくて、めったにほかの人に心を開かないという人間なんです、本当は。だけども、それではだめだということもわかっていて、そう思うことの一つは、とにかく詩というものの性格・本質が、まさに、そういう排他的行き方、自分以外の人々とは私は関係ないわという態度をとるのとは、反対だと思うからです。詩というのはそんなものじゃないということを、私は詩の本質論として思っているからですね。

 ですから、詩というものを考える人は、自分は仮に作らなくとも、連詩的なものに対して開かれた態度を持っていないといけないと思うんです。無理をしてでもそういうふうに開いていかないと、新しい世界は開けないよということが、あるんじゃないかと思いますね。

 一九五〇年代に、ぼくは詩を書き出しているわけですけども、そのころ見回すと、友達とか先輩とかがいっぱいいたわけです。そういう人々のことを考えると、ものすごいけんかもありました。だけども、そういう時代のほうが今よりはずっと開かれていた。空気がすーっと通っていたんですね。すぐれた詩人というのは、ぱっとわかった。そういう連中と友達になろうと思えばわりと簡単になれた。ぼくは谷川俊太郎とは同じ年であるということもありますけども、傾向としてはぜんぜん違っていても、初めから仲がよかったですね。それは、二人とも二十二、三歳か二十四、五歳のころです。傾向がまったく違っていても仲良くなれるということが当たり前だった時代があったんです。今から半世紀前ですね。そういうことを考えると、今、やっぱりこれは何とかしなきゃならんと思う。

 でも、連詩をやっていることに反感を持つ人が多いから、やむを得ず文章を書くんですね。読む人は聞く人の数に比べると十分の一どころか百分の一になる。書いた物を読むということはそれだけで努力することなんです。そういう努力を厭う人が多くなって、読むよりは、テレビジョンでチャンネルを回せば、そのまま見られるほうがずっといいや、というふうになってきたのがここ三〇年間、一九七〇年代からあと。つまり、三島由紀夫事件があったあとですね。同時に浅間山荘で学生たちが立てこもって、壊滅した。浅間山荘事件から日本社会は変わったというふうに、ぼくは印象として持っています。三島由紀夫事件は、ちょうど大阪の万国博覧会と同じころです。大阪万博という繁栄を象徴するようなものがあって、同時に三島由紀夫事件のような、寂しい事件があって、そういうことが日本の社会をはっきり二つに見せてくれた。それ以後はどんなことも、みんながそれほどまじめに見てくれることがなくなったわけです。



外国における連詩の試み

 連詩は、外国ではみんな好きになっちゃうんですね。それが不思議です。外国でどんなものを作ったかというのは、その一例を、皆さんにお渡しした『ベルリン連詩』というもので出しています。これは実際にはお互い話し合って作ったわけじゃなくて、そこに寄り集められた四人の人間が、これからこういうふうなものをやろうっていうことで始めた。外国の連中は連詩なんてまったく知らないわけです。自分の作る作品をほかの人間が見ている、そういう場で作るなんて考えられない、そんなばかなことはないという考えの人ばかりが集まって来た。ぼくだけは、それを作っているから、一応説明して、それから始めましょうってことで始めたんです。

 やってみたら、二日、三日経つうちにみんなひどくおもしろがって、これで終わりなのか、つまらないなというのが、終わったときの感想でした。デンマークの女性詩人のインガー・クリステンセンという、デンマークでノーベル賞をもらうのは彼女以外ありえないと言われている人ですが、ぼくは、はじめ、怖いおばあちゃんだと思っていたんです。そしたらぼくより若かった。びっくりしました。ものすごく貫禄があって、ぼくは初めから怖かったんですよね。ドイツ人のユルゲン・ベッカーが、一番話しやすくて、すぐに乗ってきた。でも、やってみたら、連詩にはあまり向いていなかったみたい。

 お互いに会ったこともない人ばっかりでやっていますから、もちろんどんなふうに作るかということは、それぞれの今までに蓄積してきた詩的なテクニックを一生懸命利用してやってるわけです。初めてやりますから、決してスムーズにいくわけないんですね。そういうものの結果がここにある。また別の連詩についても、この次にお話しします。今日はここまでにいたします。どうもありがとうございました。

 

二〇〇二年一月十七日 十八時〜二十時

於 東京増進会御茶ノ水ビル八階

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