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二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜 大岡信フォーラム ・om-forum.org |
月例フォーラム/平成14年12月
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※平成14年12月22日に行われた第八回月例会の記録
連詩(1)
「折々のうた」の始まり僕の「折々のうた」という連載物は、朝日新聞に頼まれて始めたのがきっかけで、今では二十年以上になります。僕がそれをやっているために、何とかしてそこに一首ぐらいは、運よく拾われたらいいなということで本を送ってくる人も多いです。
「折々のうた」の始まりのきっかけというのは、話せば簡単なことでした。新聞に朝夕刊両方とも必ず載っているものの一つが連載小説です。大勢の読者がいますね。朝刊の連載小説は、最初から最後までずっと文章があるのではなくて、必ずおしりのところに五センチ近くの空間があり、そこには広告があります。その空間を広告ではなく、ほかの連載読物で埋めようと、新聞社が考えたことが「折々のうた」の発端でした。しかし、そういう小さなページを毎日担当してくれるような筆者がいるだろうかと考えたわけです。その場合は短歌あるいは俳句を取りあげて、小さな鑑賞あるいはエッセーを書いてもらうのが一番いい、と彼らは考えた。
それまで、ぼくは朝日新聞の「文芸時評」(一九七四年十二月から七六年十二月まで計二十五回)をやっていたので、学芸部に知り合いが二、三人いた。その中の一人が、「それは大岡さんが一番いいだろう、あの人は短歌や俳句のつながりが何にもない人だから。つながりがある人に頼むと、自分に関係したところばっかりやってしまうからまずい」と。それは当然です。とくに俳句とか短歌というのは、自分の仲間以外のものはまったく無視しますからね。それが、日本の短歌、俳句の結社の奇妙な鉄則です。
担当者が、「俳句について毎日できますか」と訊くから、ぼくは俳句だけということ自体が気に入らない、言ってくる相手がまちがっているんじゃないかと言った。俳句に限るならば、絶対断る。ただ、勝手にやっていいというなら、短歌も、歌謡も(歌謡というのは非常に重要だからね)、それから古代和歌も古代漢詩も引用するということでやるならば、考えないでもないと言ったんです。結局、それが決まるまでに三ヶ月くらいかかったんじゃないかな。
「折々のうた」第一回目第一回に何を出すかというのは大問題ですね。はじめは、こんなに長く続くとは思っていません。新聞社がぼくに要求したのは、何ヶ月ぐらい、あるいは多くても半年とか、長くて一年ということだったと思います。常識的にいえばそれが当然ですものね。その場合に第一回を何で始めるかということが問題だけれども、どうせ私は素人ですから、素人が作った詩から始めるしかない。素人が作ったものが第一回で取り上げられれば、だいたい筆者は将来どんなことをやろうとしているか、ということがわかる。
一回でわかる、ということは、連載の場合とても大事なんですね。始まったときにその方向がある程度はっきりしていないとだめなんです。ぼくは新聞記者だったからそれだけはわかる。ですから、この場合にはこうやれば売れるということは、わかっていた。ちっとも自分の本は売れないけど、そういうことだけはわかる。第一回目は絶対に素人で、しかもすばらしいやつをやらなければだめだということを決めて、それはもう動かない。
それで、第一回目は高村光太郎の短歌にした。高村光太郎の短歌は、そんなに多くはないのです。だけども、いいのはいいんですよね。
光太郎さんは、芸大、昔は美校(東京美術学校)と言った美術学校の彫刻科を出て、木彫をやっていて、ヨーロッパへ勉強に行こうと考えた。ヨーロッパにロダンという彫刻家がいることを知っていましたから。ロダンがいるところ、おそばへ行って、その近くにでも住んで、勉強したいと思ったんですね。
日本からは、大変な期待を集めて出発した。慎重な人ですから、初めにヨーロッパにいきなり行かずに、まずアメリカへ行った。それからフランスへ渡って、ルーブル美術館などを見てまわって、愕然としたんですね。一、二年まじめに勉強はしたようですけれども、結局、光太郎さんはヨーロッパに行って、自分の彫刻ではだめだと思った。こんな巨匠たちのところで勉強するなんてとんでもない。もちろんロダンの弟子になんかなれっこない、ということで、ついにロダンのところにはまったく足も踏み入れなかった。
だけども、その間に文章は書いていたんですね。やがてそれが詩になります。それに、フランスに行くまでの間に、かなり意地になって作っていたのは短歌です。
短歌の師系短歌は、どんな先生につくかということが非常に大事です。師系と言います。短歌を作っているという人に出会ったときに、あなたは先生はどなたについていますかと仮に聞いてみると、それを聞いただけで、その人がどんな作品を作っているかはだいたい見当がつく。短歌とか俳句は、短いものですけど、先生がものすごく重大ですね。
先生によって捻じ曲げられてだめになっちゃう人もいる。先生によって伸びる人もいる。但し、先生のお気に入りで、ぐんぐん伸びる人はあんまりいないと思う。伸びるのは、むしろ先生に対して、あまり素直にいい子ちゃんではなかったような弟子の方じゃないかな、と私は思います。
高村光太郎の師系は、与謝野晶子さんです。晶子さんというか、与謝野鉄幹と晶子。光太郎は、晶子さんには実際に心酔していたところもあるんじゃないかと思います。「明星」というグループの下っ端のほうにいた人なわけですけどね、光太郎は。下っ端にいながら歌を作っていて、歌集は出さなかったですけど、ある程度の数が残っている。『高村光太郎全集』には載っています。この人の歌は素直な、いい歌です。ぼくは、「折々のうた」第一回はこれでいくとはじめから決めていた。高村光太郎のその歌をご紹介します。
海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと
(明治三十九年)
「折々のうた」で広々とした詩歌の海に航海を始めようとする私自身の気持ちを、この歌で代弁させたわけです。
「折々のうた」の長い歴史ここから私の「折々のうた」という連載が始まったのです。百回くらいで終わるかなと思っていたところが、読者の方の反響がたくさんあって、はがきや手紙が朝日新聞へ来る。それで、新聞社では、これは困った、というよりも、これはしめしめ、これで大岡はやめるとは言えない、ということになって、ぼくも、一年間、評判がいいならばと思ってやりました。
その途中で、新聞の真中に移動していたテレビ・ラジオ欄(「ラ・テ欄」と略称します)が、もとに戻ったんです。一番おしまいのページに集められていた、囲碁将棋、趣味などの集合体が、一旦全部解体しちゃった。僕は、しめしめ、これでおれはもうやらなくていいと思ったら、とんでもないことで、いきなり「折々のうた」を第一面に持ってきちゃったんですね。これを「顔」にするというんです。ある編集局長が英断でそれをやったのですけど、そういう方針の大変換が、連載開始から半年ぐらいで起きて、それから以後はずっと一面の扱い。
今ある場所は下のほうですけど、初めは右側の「朝日新聞」という題字のすぐ下に置かれたんです。ですからいやでもみんな見るんですね。そういう場所だったから、すぐにやめますって言ってられなくなった。それで、続けて二年書いたのですけど、二年やるともう、うんざりしちゃってだめだから、お休み。そのときは三ヶ月ぐらい休んだ。そのうちに半年休んだり、今では二年ぶっつづけに書いて一年休みとなっています。二年ぶっつづけというやり方はあまりにも無理が多いので、別の形に変えたいな、と思っています。
書いた分を、一年ずつまとめて、岩波新書で出しています。岩波新書からもう十六冊出て、今、十七冊目が終わりに近づいているわけです。まあ十七年間は丸々やっている勘定ですね。そういうふうにして続けてきました。とにかく続けられているのは、皆さんに支持していただいているらしいからです。
『ベルリン連詩』について今回は、お手元に『ベルリン連詩』という小冊子をお分けしました。これは、二〇〇二年十月に国際交流基金賞をいただいたときに、皆さまへのお礼として作ったものです。「連詩」をともに作った詩人たちの一人、インガー・クリステンセンは、デンマークの女性詩人です。アダム・ザガヤルスキーはポーランド人。ユルゲン・ベッカーはドイツ人。それから大岡信というのは日本人です。
四カ国の人が一度に集まって、何の準備段階もなしに、いきなり始めたんですね。ぼくがちょっと、こういうことをやると説明して、それから三日間で、これだけの作品を作った。みんな、それぞれの国語が違いますから、それをドイツ語を一応基準として……ではなく、自分の作品は自分のことばで書いて、ドイツ語に訳して、みんなでつなげる。ぼくはドイツ語はできませんから、このときには福沢啓臣(ひろおみ)さんという優秀な人がいっしょにやってくれた。
「連詩」と「連句」それで、今日は、ちょっと「連詩」の話をしようと考えています。実は、最近まで、「連詩」というものを、ご存知ないかたもたくさんいらっしゃったのです。ところが近年になって「連詩」という言葉がときどき新聞にも出るものですから、聞いたことがあるとお思いの方もいらっしゃるでしょう。
「連詩」ということばは近年になって作られたことばで、作ったのは私です。私も仲間の一人であるところの「櫂(かい)」というグループがあります。谷川俊太郎、岸田衿子、茨木のり子、吉野弘、川崎洋、中江俊夫、水尾比呂志、それから亡くなったのですが、友竹辰、本名を友竹正則という歌い手、入ったけれどやめてしまったのが飯島耕一。そういう仲間がもう五十年以上、ぼくらが二十代か三十代のはじめから、同人雑誌を年に一冊か二冊作っていました。「櫂」というのは船のオールのことです。「れんちゅう」というと「連中」と書きますけど、ちょっと気取って言えば「連衆」、「レンジュ」と読みます。みんな集まって心を一つにしてあることをやる人々のことです。「櫂」というグループは、昔からずっと連衆意識があって、一九八〇年代の初めに、共同で作品を作ったらどうかという話になった。きっかけは私が、詩人の安東次男、小説家の丸谷才一その他といっしょに、連句をやっていたためなんです。
歴史的に言えば、連句の前に連歌というものがあります。西暦紀元八世紀、九世紀ぐらいにはすでに相当作る人がいて、一大文学運動の形で何百年間か、消長はありますけど、栄えたんですね。室町時代のころには栄えていた。でも、江戸時代に入るころになると、衰えてしまった。連歌よりももっとおもしろいものが見つかったんですね。それは、連歌よりも短い詩形である俳諧。俳諧を使って、同じスタイルでやってみようということから、連句が始まった。連歌から連句が始まったというわけです。
連句、あるいはそれ以前の連歌というものは、実は日本文学の歴史を考えた場合には、ここをちゃんと押さえてないと続きの話がみんないんちきくさくなってしまうというほどのものです。連歌とか連句を知っているというのはとても大事なので、耳にはさんでおいていただくといいかもしれない。
形式的にいうと、実に簡単なんです。五七五と七七という二種類の単位の詩句を交互に組み合わせるだけで、実にゆたかな世界が生まれるのです。
(以上 大岡フォーラム 二〇〇二年十二月二十日)