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二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜 大岡信フォーラム ・om-forum.org |
月例フォーラム/平成14年11月
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※平成14年11月22日に行われた第七回月例会の記録
調理室−駒井哲郎に / 加納光於による六つのヴァリエーション−加納光於に
今日のテーマ今日は、前回お話しした駒井哲郎さんの話の続きと、版画のスタイルは全然違うんですが、加納光於(かのうみつお)さんのお話もしたいと思います。
前回は、駒井哲郎さんのお仕事の一部分についてお話ししました。今日は、駒井さんについて書いた私の詩を奈良さんに読んでもらって、その詩について話をするということを前半でやろうと思っていました。でも、奈良さんがNHKのお仕事が長引いているので、お見えになるまではほかの話をしていきます。
『大岡信全詩集』と小田さん実は今月、十一月のはじめに、山口県に秋吉台という鍾乳洞がありますね。そこで詩人達の集まりをする計画を、思潮社の小田久郎さんという社長が中心になって実現させた。具体的に言いますと、そこの芸術村というところで「詩について語ろう」という催しがありまして、詩を書く人に、参加しませんか、という呼びかけがあったんですね。それでぼくはそこへ出ることにしました。(注・「芸術村で詩を語ろう」 山口県・秋吉台国際芸術村 十一月二日(土)三日(日)四日(月・振休)大岡 信、谷川俊太郎、白石かずこ、吉増剛造、荒川洋治、谷川賢作(音楽家)他が参加)
というのは、また別の話になりますが、ここに、皆さんがご覧になれば、あきれかえるほどの厚さの本がありまして、私の今までの詩集を全部集めてあるんですね。全詩集と銘打ってますけど、私は全詩集というのは死んでから出すものだと思っていました。そしたら小田君が、大岡さんのを出したいと言う。
小田君はぼくとまったく同じ歳でして、詩の出版社を始めたのは二十代の終わり頃ではないかと思うんです。それからずっと知っているわけで、いわば同世代の戦友同士みたいな気持ちで来ました。その間、小田と私は別にけんかは何もしなかったけれども、ある場合にはかなり疎遠になって、ある場合には親しくなってというふうな、これは誰にでもおきることですけど、そういうことがありました。そのあげくに彼がある日「大岡さんの詩集を全部集めたい」と。それをやってから、自分は詩の出版社の社長としての仕事を引退をしたい。「だから大岡さんの詩集は自分にとっては仕事のひとつの区切りだというふうに思っている」と言うんです。それはもう大変ありがたいことですから、やってくれと言ったのですが、その結果、とにかく彼がなんでもかんでも入れると言うんで、こんな厚いものになりました。
大岡の青私の前に、同じ思潮社から全詩集を出した人がいて、もう亡くなってしまったのですけど、田村隆一(たむらりゅういち)(一九二三〜一九九八)という大変有名な詩人。田村の詩集が、たぶんこれより百ページぐらい少ないんですね。ぼくのは、はじめはべらぼうに厚くなりそうだったんで、二冊でいいんじゃないのって言ったんですけど、彼はどうしても一冊で出したいんです。それはまあ出版社の一種の見栄もあるんでしょうね、こういうでっかいものを出すっていうことは。
私は危ぶんだんです。二冊にすればいいのに、一冊にするというのは、開けてみたらばらっといくという可能性があると思ったんですね。そんな本を出されるのならば、薄くして二冊にしてもらえればと思ったんですが、実際にやってみたら、ちゃんときちっとできた。その理由の一つは、彼がすごくいい紙を使ったんです。要するに薄いんです。本を作る上では、紙というのは一番重要な要素ですけど、これはフランスかどこかの紙らしくて、それが多少紙屋さんに残っていた。それを使うと、ぼくの全詩集を作るには十分間に合うというので、見てみたら案外きれいないい紙なんですね。じゃこれでいいよって言った。字が裏側に映るような紙だと困るねって言ったら、映るほどには薄くはないと。実際作ってみたら、意外にかっこいいんですね。いい本になりました。
小田君が誇りに思っているのは、この色です。ブルーのこの色。これは大岡さんの色だって言うんですね。彼に言わせると。そう決め付けているんだな。まあ、そう言われてみればそうかもしれないけど。ぱーっとしてのんびりと空が真っ青だっていうのはいいかもしらんと思ったんですけど。それでこの色を出すのが大変難しくて、これの装丁をしてくれたのは、今では装丁家として第一人者の菊地信義(きくちのぶよし)さんです。その菊地君がすごく熱心に作ってくれたんですね。
菊地君が初めから終わりまで危ぶんでいたのが、この色がうまく出るか。出るか出ないかで大きな違いがあるのですが、この色はほんとにうまく出て、すべてこの色で覆われていて、製本としても大変に気に入った本になりました。ローマ字で名前を書けっていわれて何の気なしにひょっと書いたのが、ひどい字ですけど、それがこの通りあしらわれていて、この「全詩集」というのも、ぼくにわざわざ墨で書いてくれと言って、出来上がってみたら、わりと感じがいいからよかったな、ということです。小田君にごちそうして、お礼を言わなきゃならない、ごちそうは何がいいかと考えているんですけどね。
新詩集『旅みやげ にしひがし』そういう次第で、これを秋吉台へ持っていって宣伝もできたんで、小田君にとっては大変好都合だったと思います。私は私で、これが出たらそのあとに新詩集を出すということを考えてました。全詩集というのでおしまいになるというのが普通ですけど、ぼくは、全詩集がおしまいだっていう考え方はあんまりないから、全詩集が出たら、すぐに追いかけて新詩集が出るということが一番いいと思っていたんです。ほんとに新詩集がすぐに追いかけて出ました。
この本ですけど、十一月二十日発売。まだ出たばっかりのほやほやです。これは、『旅みやげ』という題で、それに副題的に「にしひがし」というのがついています。つまり、洋の東西に、いろいろ行った場所のこと、何となく思い出すようなところのことを、詩で書きました。二年ちょっとの間に書いたものです。
初めのほうに「ホテルというところ」なんていう短い詩をつけたんですね、導入部として。
それから「グランドキャニオン」。実際いらっしゃってみればわかりますけど、ほんとにアメリカには、地理的に我々の想像を絶するようなところがいっぱいあります。
それからその次に「カスティリア」、スペインですね。ある小さな場所ですけども、えんえんと車でとばしていって、山の中腹にたどり着いた。その山の上に小さなカテドラル、教会の廃虚があって、そこで毎年夏に音楽会が行われる。その音楽会が夜中に行われるんですね。夜中にそこへ行くということで、二、三人といっしょに行ったんですが、計算した時間には全然着かなくて、ずっと遅れていったんです。行ってみたらもうほんとに大勢来ていました。その道が山のてっぺんまであがっていく、その道全体にだいたい五、六十センチくらいの間で、蝋燭がずっと立ててあって、それにいっぺんに火を灯した。美しい夜景でした。音楽会そのものは、人が多すぎてとても我々は中へ入って聴くわけにはいかない。でも、外にいるとものすごく寒いんですよ。真夏に近かったけども、夜はスペインは寒いですね。それでとてもだめだからとふもとにおりて、そこで地酒を飲んで、そのまま首都に戻ったんですね。そのときのお話。スペインの女性が車にいっしょに同行していて、髪の毛がとてもきれいな人で、二十代でジャーナリストになったんですね。ところがジャーナリストになってみると、男はみんなマッチョを気取っていて、スペインの男はみんなあほで、どうしようもないという話をせつせつとしてるんですね。ぼくに向かって、車の中で後ろを向きながら、そのことをずっとしゃべっている。その話がおもしろい話だった。おもしろくて悲しい話でね。女はスペインではばかにされているという話。スペインではまったく女の人格を認めてないっていうくらい、激昂している話だったから、その話が印象に残ったので、そういう話を詩に書いた。
上海で亡き祖父の家を訪ねるそういうのから始まって、さまざまな土地へ行って、さまざまな人々に会った話を書いてあります。上海に行ったこともありました。日中文化交流協会の派遣で上海へ行く、その中の一人で行ったんです。そのときにぼくは、できれば行ってみたいと思っていた場所があった。それはぼくのじいさん、親父の親父が上海に行って暮らしていて、そこで死んだのです。まだ五十代の半ばぐらいで、糖尿病でした。このおじいさんのことを、ぼくはいろいろ知りたかった。調べに行ったら、たまたまおじいさんが住んでいたところがすぐにわかったんです。その場所のことを言ったら、「あ、先生、それなら行きます。大丈夫です」と言って、すぐに中国の通訳の人が連れていってくれた。
実は、その数週間前ぐらいに、映画監督の篠田正浩が、詳しく克明に調べて帰ったと。言われて、ピンときたんですけど、それはつまり篠田さんの、もうじき発表される映画だと思いますけど、ゾルゲ事件を扱ったものですね(注・『スパイ・ゾルゲ』二〇〇三年公開予定)。ゾルゲの事件で関連していた尾崎秀実(ほつみ)という人は、ぼくの同僚と言うか日本ペンクラブの会長もやった尾崎秀樹(ほつき)さんのお兄さんで、朝日新聞の記者だった。この人がゾルゲ事件に関連して、逮捕されて、殺されたということがありました。その尾崎秀実さんのことを、篠田正浩は映画にしたいんですね。それで映画化を計画した。ぼくは前から計画は知ってたんだけど、たぶんそれで来たんだなと思って、そのことも詩の中で書いてある。
そのじいさんのことを長く書いたんですが、これはいろんな人が、「上海のおじいさんの詩はすごくよかったね」と言ってくれてましてね。ついこのあいだも、小説家の丸谷才一さんにこれが送られたらしく、彼が「本が届いた。やっぱり通して見たら、上海のおじいさんのことを書いた詩はいいねぇ」というんですね。ほかのかたでも何人か、じいさんのことを書いた詩がいいって。ぼくの子供の頃の思い出から、全部からんで書いたんですけど、その結果、この詩は皆さんに印象的だったようですから、詩の一編でもあれはよかったなというのがあれば、まあ詩集としてはいいんですね。
ほかの詩では、イタリアのすごい墳墓(ふんぼ)の土地、タルクィニアという地中海に近いところがあります。ものすごく暑いところです。 そこはタルクィニアという古代の王国があったところ。エトルスクという民衆が栄えたところです。そこに行ってみたんですね。ここはローマの北側ですから、イタリアでいうと、むしろ中央部よりちょっと北側になるかな。そこでエトルリアのいろんなお墓を覗いてみたんです。
そこにはいろんな遺跡がありまして、二千年以上前の、美しく彩色された墓もあって、そういう墓をいくつか見て回ったんです。こういうお墓は、ほんとは今、人を入れてはいけないんですね。人を入れると炭酸ガスが発生します。炭酸ガスのために遺跡が傷んじゃうんですね。そういうことがあって、制限されている。
運よく、制限されている中で、ぼくらが見ることができたお墓の一つが、「牡牛の墓」。そのお墓は彩色された墓で、中に入ってみると、牡牛がちゃんといるんですね。大きなお墓の天井に接する壁の絵がけったいな絵で、男と女がそこにいて、牡牛が左右に二頭いて、その牡牛の肢体と男と女のやっていることが、克明にという感じで描かれている。それがエロティックなんですね。ここはものすごく人を集めそうなところだってわかるんですね。そこへ真夏に行きまして、克明に見て、やっぱりおもしろかったから、それをちょっと思い出して書いたんです。
これもほめてくれる人がいた。一人は、高橋睦郎(むつお)君、現代詩人ですが、彼はこの『旅みやげ』の中でおもしろかったと言ってぼくにわざわざ葉書をくれたことがあったんです。そういう意味ではかなり話題性にも富んでいるわけですね。
「うたう」詩と「語る」詩ぼくはこの詩を書いていた時期は、「あとがき」で書いてあることを読みますと、
詩というものの書き方がよく判らなくなった、何年も前から。たぶん私は、「うたう」ということがどういうことか、よく判らなくなったのだと思う。いまだにその状態は続いている。
これは二〇〇二年の秋ですから、ついこのあいだ書いたあとがきですが、ぼくは詩でうたうというのがどういう状態だったろうと、ぴんとこなくなったんですね。要するに詩が書けなくなった。どうしようかと思ったんですが、その状態を克服するために考えついたのが、この『旅みやげ』という詩だったわけです。うたうことができないなら、語ることで道を開くしかない、と思った。
素材として旅が選ばれたのは、わたしは旅行好きじゃない。わたしは、旅行するのが好きだという人に会うたびに、すげーや、この人はえらいなって思うんですね。ぼくは旅行って全然だめなんです。同行するかたがたはみんなよく知っていますけど、旅相手としてはくだらないことしか興味がない人間で、観光客としては最低の人間です。そういう人間だから、十年、二十年、三十年経っても、時と場合によっては、あるところへ行ったということをかえって鮮明に覚えているものなんですね。それで、それをいろいろと語ってみようと。語ることを通じて、「自分が生きてきた時代を、私という一個の小さな運動体の軌跡に託して記録することができるのではないかというふうに思い至ったからである」まあ、そういう屁理屈をつけていますけど。
実は要するに何も書けなくなったから、自分が行ったところを鮮明に思い出して書くというスタイルで、詩じゃなくて散文に近いものですね。どなたが読んでも難しい現代詩風のところは一つもありませんから。それでいいんじゃないかと。昨日、ある大きな料亭、読売文学賞の選考委員会をやる料亭ですけど、そこの座談会に行ったら、おかみさんがこの本を持ってきた。行くと必ずぼくの新刊の本を持ってきて、署名をしてくださいって言うから、大変ありがたいお客様なんです。なんか書いてくれって言うから、題名を書いて名前を署名した。そのときに、「先生、これはどこへ行っても売り切れで」と言う。売り切れか、店では置いてくれないのか、「最後に八重洲ブックセンターに頼んだら、さすがにあったから、一冊買って来ました」と。ひょっとして売れているのかな、驚くべきことに。そういう詩集です。詩集については、大専門家の花神社の大久保君に伺えばきっと違う感想があると思います。本屋にないということは、ぼくは売れてると思ってるけど、違うのかもしれない。
四行という形式いずれにしても、これは旅のことばかり書いてありますから、いわゆる現代詩くさいものは一つもないんです。ただし、形式は工夫してあって、皆さんに読んでいただけばわかると思います。四行、四行と続く、一種の定型詩と称するものに近いんですね。ただし、定型詩というのは、一行の長さが決まっていなくてはいけないけど、そういうことはしてない。ほかに五行や三行のもありますけど、大部分は一連四行。そのスタイルは、詩を書く人間としては、とてもいい形式だと思ってますね。
ここに詩をお書きになる方はたくさんいらっしゃると思うけど、詩を書く場合に、このごろ現代詩というのは全部、だだっーと終わりまで続けて書いてある。そこに別に制約も何もない。書きたいように書いて、書きたいことが終わったと思ったらそれでやめちゃうというのが今の現代詩の普通の形式ですけど、私はあれはすごく難しいんですね。縛りがないのはあんまりよくない。この場合には、始めからそう考えていたから、四行四行で割っていくスタイルが一番多くなっています。
もう十年以上前に出した『春 少女に』という詩集では、二行ずつの形式を使っていて、二行書いて一行空けて、また二行というのが刺激的に思えたんです。二行書いて一行空ける、その間に何の違いもなければ、わざわざ分ける必要はない。二行ずつにきちっと分けるということは、そこで必ずなにかの飛躍がなければならない。飛躍というのはとても大事ですね。わたしは単純な人間だから、わーっと書いて、のんべんだらりというのは嫌いなんです。二行書いて、すぱっと終わって、次の二行にぱーんと飛ぶ。この飛ぶことがとてもいいんですね。今回は二行詩でなくて四行でやってますけど。
詩において一番大切なことの一つは、書いてあることじゃなくて、書いてないところです。書いてないところでうまくいっていれば、だいたいその詩人はいい詩人だということが言えるくらい。ぼくが言っていることは、かなりむちゃくちゃなことに見えますけど、大切なことです。特にあなたがたのように若い方が詩を書く場合は、これから、今の現代詩のスタイルなんて全部やめちゃってまったく新しいスタイルを作らなくてはだめ。その場合に一番基礎的で大事なことの一つは、弾力性があって、ぱーっと飛んで、着地するときには別のところに着地するというふうな形。つまり体操の選手で言えば、「ウルトラC」みたいなことをやるつもりで詩を書かなくちゃいけない。
普通の詩人はそういうことをあまり考えない。形式ということをぜんぜん考えないで書いているらしいと思うくらい。形式の大事さということを意識しない人が多いんです。これはとても残念です。詩は、形式がなかったら何にもならない。どんなにえらい哲学的、あるいは形而上学的なことが書いてあっても、その書いてあるものを読んでくれる人がいる、読む人が、そういうものを重々しい内容ではなくて、ことばの続き具合の面白さとか、あるいはふざけていることばの感じとか、ふざけてないで深刻に悩んでいるとか、そういうことが形式の上からさっと読み取れないといけない。だけど、だらだらだらーっと書いてある場合には、何が書いてあるかわからない。
ぼくは昔から、親父が歌人だったせいか、短歌を身近に知っていました。短歌は五七五七七という三十一文字。短歌がなぜ短歌というかといえば、それは三十一音で終わるから。終わらなかったら短歌じゃないですね。短歌の形式を千五百年以上の間、日本人が守ってきたということの中には、何かとても不思議な意味があるんですね。
詞書と短歌・俳句のことばの統一日本語という言語と、それから、詩という言語の総合体、その二つの関係、ことばそのものと、言葉の総合体というものの二つの関係が、大事な要素としてあると思うのです。今の短歌を作る歌人たちも、その辺が曖昧でありまして、昨日も座談会でちょっとその話が出たんですけど。
要するに、現代歌人は、歌そのものは一応文語体で書いている。ところがそれにつけて、詞書(ことばがき)が書いてある。詞書は前についている一種の注ですね。たとえばなにかの歌が一首あるとして、その歌がいつどこでどういう事情で作られたかというようなことが書いてあるわけです。それが、つい最近の昔、昭和の戦前ぐらいまでは、全部文語体で書いてあった。歌が文語体で、その詞書も文語体であるから、短歌というものは成り立っていたわけです。ところが、若い歌人、とも限らない、結構いい年の歌人も含めて、このごろの人は、詞書を書くときには、口語体に近いような、形の上でほかの日常生活のことばと変わらないような詞書をつけている。歌だけは重々しく文語体で書いてある。
「これはおかしいんじゃないか」と、ある方がおっしゃって、別の人が、「ほんとだよ、こういうばかばかしいことが成り立っているなんておかしいよ」という話になった。私は黙ってましたけど。当たり前だからね。とにかくそういうふうなちぐはぐが、あまりにも目立つんです。
ことばとして文学が成り立つ以上は、一番重要なものの要素の一つとして形式がある。その形式を崩した上で、なおかつこれは文学ですって言ったってだめなんです。形式というものは大事だということをみんなが忘れてしまっているとしか思えない。俳句をやっている人はどうですかね。ここに俳人がいますから聞いてみましょうか。長谷川櫂(かい)さん、どうですか。
長谷川:詞書自体が少ないんですけど、つけるときは、俳句は文語体で詞書は口語体でつけることが多いようです。
やっぱりねぇ。要するに、今の人は文語体がもうできなくなっちゃったんですね。それはしょうがないっていえば、しょうがない。教育されてないんだものね。教育する側、学校の先生があほだからね、変なことを教えられたらますます悪いから、普通のことばで教わったほうがまだいいけど、できれば、文語体のことばで短歌や俳句があるのならば、せいぜい五、六語、多くても十五、六語ぐらいの短い詞書的なものまでは、短歌なら短歌、俳句なら俳句の本体と合わせてやらなければ、絶対おかしいです。形式として成り立たない。そういうことは、「この人はあほだから形式がぜんぜんわかっていない」と、すぐに丸見えになってしまうんですね。それをまじめに読む気はしないです。一生懸命読むということを、ぼくは毎朝毎朝やってるけどね。
現代の歌人、俳人の作品を読むのはしんどいです。申し訳ないから、あんまり言わないけど、時間の無駄が多いですね。やっぱり形式がきちんとしていると、読んでいて気持ちがいいです、ものすごく。歌、俳句そのものがへたでもいいですよ、形式がちゃんとしていれば。それは作っている意味があるという感じがするんですね。
詩「調理室」それでは、奈良禎子さんがおいでになりましたから、お忙しいところを毎回すみません。ありがとうございます。
ぼくは実は、今、読んでいただこうと思っている詩は、あんまり読みたくないんだねぇ。へたくそなんです。申し訳ない。ときどきいい詩も書くんですけど、ひどい詩も書いている、その例です。でも、読んでみると案外ひどくもないかもしれない。ほとんど、自分では消しているんです、ふだんは。
「調理室」という題の詩で、先月ここにでお見せした、駒井さんの『からんどりえ』という、安東次男と共作の作品がありましたが、その中の一つに、お皿とかフォークとかナイフとかそういうものがある調理室の版画がある。それを見て書いたんです。
(朗読)
調理室
――駒井哲郎に
清潔な陽差しが溢れている
魂が煮られるときは
いつもこんな風なのだ
収穫の季節は
風車の羽音のかなたにあり
めざめきらない鶏が
センネン センネンと鳴いている
あれを千年と聞いたのはまちがっていたのか
あれは専念専念と鳴いたのだそうな
悔いが煮られるときは
いつも悪ふざけが上澄みに残る
三年前のすべった恋を思い出して
胸かきむしったげらげら笑い
ひとり顔を赤くするとき
悔いはまた
ぼくの頭皮の裏側に
あざをふやした
魂が昂揚するのは
落ちる一歩手前なのだ
気をつけたまえ
嵐は低気圧だから
上機嫌は高気圧か
そのとき魂も高気圧か
ほんとうかそれは
気をつけたまえ
芽が出て葉が出て花が咲いて
雨が降って旗竿と頭が濡れて
お天気になって花が咲いて
だから世界は上機嫌か
魂ばかりか
感情までも煮られているのに
空はからりと抜けあがっている
小さな調理台のうえで
社交的な冗談が煮える
青くさい告白が煮える
敗れた者が歌う 勝利だけが信じられると
勝った者が歌う 敗北だけが真実なのさと
戦いのあとは食欲と睡眠の支配
今は本質的に睡眠の時代だから
敗れた者も勝った者も
小さな調理台のうえで
ぐつぐつ眠っている
粗い風のなかで
調理台はあんまり清潔な石だ
指でつまんで投げだしてやれ
ほらほら
足もとに気をつけるんだ
世界とおんなじ量だけの
血まみれの花がころがりでてくる
料理人のはらわたなんぞが
ぐつぐつでてくる。
(朗読終わり)
よくわからないけども、悪くはないね、多少。つまり言いたいことがあることは確かですね。それは、単一な意味でなくて、いろいろな意味があった上での言いたいことなんですね。
この世界を一つの調理台と考えて、その調理台の上でいろんなものが煮えている。その状態を描写しながら、その上にもう一つの心の状態というものを考えて、その心の状態が、魂の高気圧じゃないのかということを、詩のもう一つのレベルで入れているんです。それで詩がわからなくなっている。調理台の上でぐちゃぐちゃ煮えてるからわからなくなっているんだ、当たり前だという、へたくそな詩人が弁解するような詩。なんとなく聞いていると、わかる詩のような気もする。要するにわけのわからない状態を詩の中で書きたかったんでしょうね。
駒井哲郎にそれを差し上げたのは、駒井哲郎が仕事に専念しなくちゃならないということがあって、専念、専念と、そこからヒントを得たのかもしれない。とにかく駒井さんの仕事を考えて、僕自身のそのころの心の中にいろいろあって、それを合体させたから、ますますわからないところが出てきたんですけど。「専念、専念」と、頭の中で反響させていたんでしょうね。今聴いてみると、とてもうまい詩とは言えないけれど、三十代の人間が考えそうなことでもあるなという気もする。皆さんが年代的に言えばそれにちょうど近い年代でいらっしゃる方が多いんですが。
僕自身はもう七十過ぎで、そういう目で見るとへたくそだなぁと思うものですから、あんまりここで読んでもらいたくなかったなぁという気がする。しかし、読んでもらえば読んでもらったで、多少、自分の中でごちゃごちゃしていた状態が、よみがえるということはありますね。ただし、皆さんが聞いていてくださって、どういうふうにお感じになったかということは、まったくぼくにはわかりません。
では、いったん休憩しましょう、十分くらい。全詩集はここへ置いておきます。ご覧になる方はどうぞ。これ(「アララットの船」)は加納光於さんが作った芸術作品です。ご覧になるといい。わけがわからないように作ってありますけど、不思議なものです。
(休憩)
学校と谷川・武満・加納…あるとき、駒井さんとお話をしていて、近頃の若い版画家に一人二人優秀な人が出てきていると言うんですね。そのときに名前が出たのが加納光於。加納さんは昭和八年生れで、僕よりも二つ下。背丈は似たり寄ったり。顔つきは目がギョロっとしていて、あるとき、階段を下りて入る銀座の地下のバーに入っていったら、「あら、お帰りなさい」って言われた。どうしたのかと思ったら、たった今まで加納さんが友だちといっしょにいらっしゃってたので、また来られたのかと思ったと言われた。目がぎょろっとしているところが似てるんですね。全体としてはそんなには似てないのですけど。
加納さんは、高校まで行ったかどうか。「学校」というところへはぜんぜん行っていない。その点では、詩人の谷川俊太郎と似ているんですね。
谷川は、高校まで行ったけれども、さぼっていて、いわば劣等生だった。詩を書くことにしか興味がないというふうに思っていて、お父さんで哲学者の谷川徹三さんに、「自分は詩人になるんだ」と言ったら、お父さんはとっても心配して、「学校も出ないで、就職もできないでどうするんだ」と。谷川は「ぼくは詩を書いて、あとはアルバイトで暮らしていく」と言ったんです。哲三さんは、若いときからの友だちである詩人の三好達治さんに、「自分の息子の俊太郎がこう言っているんだけど、どうかね」と言うと、「詩を見せろ」と三好さんが言ったので、俊太郎が書いていた、たくさんの原稿のうち何篇かを見せた。そしたら三好さんが、これはみどころがある、いい詩人になるかもしらんと言って、息子の思うとおりにやらせたら、と薦めてくれた。だから三好さんは、谷川にとっては恩人なんです。あやうく学校という病苦から救い出してくれた詩人。それで、そのままずっと彼は詩人として通ってきた。そういう意味では立派です。
谷川と仲間で、せっせといつでも仕事をし合っていた、もう一人の芸術家が武満徹という作曲家ですね。武満はやっぱり音楽学校は出てないんですよ。米軍が日本を占領していた時代に、米軍が、日米の安保体制を守るという意味で日本に駐留していた進駐軍が、日本の何箇所かにいたんですが、それをぐるぐる回って、彼はピアノを弾いて飯食っていたんです。だからアルバイトで暮らしてた。そういう意味では、谷川俊太郎と武満徹は兄弟みたいなもの。
武満徹は昭和五年生まれで、俊太郎は六年生まれ。ぼくも六年生まれです。その年代の連中にはかなり放浪者的な芸術家がいて、中でもいい芸術家は、谷川とか武満とかです。ほかのすばらしい芸術家もいて、その方々は音楽学校とか美術学校へ行って、ちゃんと勉強してます。谷川と武満はむしろ異例な人です。加納さんも、その口ですね。
この人は体が弱くて、高校へ行ったか行かないかわからない。とにかくそれ以後は、大学はもちろん行ってないと思います。要するに自分のやりたいことをやりたいようにやって、全然上の人の指導を受けず、自家製の技術で全部やってきた。
加納光於のことばとスタイルその結果、こういうすさまじい量のお仕事をしているわけですね。現在でも、一年に一回か二回は展覧会をやっています。この人も、「狂」ということばが入ってもおかしくないくらいの仕事の虫です。量がものすごいですね。題名は、頭が痛くなるようなものですけど、ここにあるこれは、『PTOLEMAIOS SYSTEM 翼・揺れる黄緯(こうい)へ』(一九七七)という題です。ぼくは、親しくしていたにもかかわらず、加納さんのこういう題の付け方はいったいどこから出てくるのかわからない。聞いたこともない。
普通、文章というものには、用言がありますね。文章のおしまいに必ずつくわけです。ところが、この人の文章には、用言がほとんどない。名詞と、ときどき形容詞が出て来るかな。それ以外の文章の特色は、とにかく短い、断言する、ぱっぱっぱっと文章を書いていく人なんです。「ぼくはこう思う」ということは一切書かない。「ぼくはこう思う」という内容だけを書いてある。
普通の人の文章は、「私はこう思います」というのがくっついて、やっとほかの人に伝わるんですね。ものだけをぱっぱと書いてあると、この人は何を考えているのかなぁ、きれいなイメージもときどきあるけれど、という感じになるんです。
加納さんのスタイルは、用言を使わずに、どんどん動いていってしまう。そのスピードはすごいです。この『プトレマイオス・システム』という本を形づくっているたくさんの絵は、一年か二年ぐらい作っていたかな。その間に膨大な数のものを作って、それのごく一部分が、こういう本になって出てくる。世の中に絵描きさんはいっぱいいるけども、この人の仕事に匹敵する量と、緻密さと、それからバラエティ、そういうものがある人は、ほとんどまったくいないと思いますね。
その点ではこの人も、武満とか谷川と同じような、自分が思ったことをなんでもとにかくだーっとやっていくタイプです。ほかの人がこう言ったからこう変えていくということがまったくない。この本は、ひとつの例としてここにお見せするわけです。こういうものが、毎年一冊ぐらいずつ作られていた時期があるわけです。
この本の下の部分にたくさん出てくるのは、ぼくのことばじゃないかな。ぱっと即興的に作った詩みたいなものです。ずいぶんわたしも加納さんといっしょに仕事をしているんです、確かに。ぼくらは、あんまり作ったことにこだわらない。あとで見て、「びっくりした、こんなにやったの」ということがよくあります。これを見て、この絵は何を意味しているかとか、どういうもののイメージかとかということを考え出したら、もう全然わからなくなる。ぱっと受け止めて、「こういうもんだ」と思って見るしかないのです。そう思って見ると、それなりにみんな一つずつが美しく作られているから、これでいいのですね、という感じになるんです。こういうスタイルの絵描きさんというのは、ほかにあんまりいないんじゃないかと思いますね。
版画の製作現場ぼくは、加納光於さんについて、一冊本を書いています。『加納光於論』(書肆風の薔薇 一九八二)という本。風の薔薇という会社はもうつぶれちゃって、ないと思います。加納光於さんの熱狂的なファンがたくさんいるんですが、その中には、こういう本を作る出版社の社長さんもいる。
この絵はわりと初期の版画で、この絵一枚が、版画ですから何枚か刷れるわけですけど、たぶん五枚が限度です。五枚以上刷ると、先月お話ししたように、プレス機でぐーっと押して凹んだ版の間につまっているインキを押して刷り取るわけですから、加納さんの銅版画は、五枚ぐらいぐーっとやると、もう版が擦り減ってしまう。
ふつう版画では、版を刷り上げるとき、プレス機で押すと、一回やるたびにそこに溜まっているインキが、紙に吸い上げられて、紙のほうに黒いのが反転して写る。プレスをやるたびにすごい重さがかかりますから、やわらかい亜鉛版のようなものの場合は、五回も十回もやるとだめになる。版そのものが擦り減って、平らになってくる。
加納さんの場合には、それをやわらかいので作る。ぼくが持っているこれは、初期の代表作の一つですけど、状態がいい。1/5ぐらいかな。五枚作った中の一枚。ぼくは、一番を持っているんだけど、それは南画廊で展覧会が行われたときに、この作品を買ったからです。
細かいものですけども、実はこれは描いてあるものではないんです。絵を描くようにして描いたのではなくて、ある種の技法でやっている。
加納さんの場合は、一枚の版にグランドをひいて、実にいろんなものを使う。例えば、ぼくが、これをやるといいよと教えられてやった方法の一つは、青梅を木からもぎとってきて、版を作るときに使うんですよ。それをぽとんと、まだ乾いていないやわらかいグランドの上に落として、すーっと転がしてやるだけで、青梅が動いた部分だけがグランドを吸い取っていきますから、そこの部分が凹版になる。酸をかければ、その部分が、腐蝕されてちょっとへこむんですね。そこにインキをのせてそれをプレスにかければ、少しへこんだところにはちゃんとインキが残ってのっかっているわけですから、作品ができるんです。
そういう方法をこれは使っている。これはもちろん梅じゃありませんよ。おそらく、布だと思います。ですけどもその秘密は、この人は絶対人に見せない。ぼくは弟子入りしたが、青梅段階で終わりです。技法の面でいうと、ものすごい技術をたくさん発明して使ったのですね。
ここにあるこれはまた別で、版は亜鉛版を使って、ジンク版というんですけど、何かで焼き切ったのですね。きれいに焼いて、そこにいろんなでこぼこを作るわけです。焼くと金属ですから、反ったり盛り上がったりする。それをわざわざ使うんです。普通だったら、版画家は全部これはおしゃかといって捨てる。そこのところを全部利用している。加納光於はものすごくたくさんの技術を自分で発見して使っている。そういう人です。
『アララットの船』次に、この写真にある作品(〈アララットの船あるいは空の蜜〉(一九七一〜七二)――前面と上下左右にガラスの入った箱に、大岡信の未発表詩集と様々なオブジェが収められている)はそこにある箱と同じものですけど、一見すると両方同じもののようですが、まったく違います。中にいろんな部品がいっぱい入っていますけど、この写真とは多くの点ではっきり違います。これは三十五点作ったものですが、中身は一点一点みんな違うのです。部品を一つ一つ作って、この箱の中にとても丁寧に入れてある。ばかばかしいくらいきちんとしていて、同時に皆別々なんですね。順序も、別にここにこれがなければならないということは何にもありません。ただし大きな枠としてはあるのですね。加納さんと私の話し合いで、こんなところはこんなふうにしたらいいかなということがあって、じゃあ、あれを入れようとかこれを入れようとかいうことを言って入れたんです。
箱の中に部品が三十ぐらい入っています。全部加納さんが手を加えた部品ですが、彼は魚を釣りますので、魚釣りの道具がいっぱい利用されている。浮きとかおもりとか、そういうものを利用しているんですね。箱に向かって左側の真中の奥には、ぼくの詩集が一つ入っています。全然読めないですよ、誰にも。破壊して取り出さないかぎり。
今回の全詩集の中で、加納さんの作ったこの『アララットの船』に入っているぼくの詩集が、そのまま初めて公開されました。詩集は、この箱を人体と考えると、人体の胸の中心に置かれている。心臓の位置。その周辺に、心臓を取り囲んでいろいろな部品がある。それは人体でいえば肺臓とか脾臓とか言えるようなものがあるわけです。
ただし、それは全部一種の想像力の産物ですから、ここに心臓があるのかと思って見たら大間違いで笑われます。それから上の方、向かって右側のほうには、透明なプラスチックの筒があって、そこには、僕の頭脳的なものの産物の一つである詩がちょっとだけ印刷されている。横から見ると、こちら側にくるくると巻いてあるセルロイドが見える。それを開いたものがここにひろげてあります。
これはこの部品の中に入っているものと同じですけど、この中に入らずに番外で印刷されてあるものの一つですね。こういう形で、ぼくが加納さんのいろいろな絵の中にことばを書き込んであるのです。このころは一生懸命作った詩ですが、今になると読むのがこわいな。
こういうものがいっぱいあるんですから、この箱たいしたことないと思って見てみると、だんだん、何だこれはっていうふうな感じになります。こういうことが、加納光於は好きなんですよ。人が全然気がつかないようなことを、人に隠れて、平然としてやっていて、誰かがいつかどこかで発見すれば、それはそれでいいと。まあ、遺跡の発見をするみたいなもんですね。そういう態度で作ってある。これは一九七〇年代に作ったものです。その後は、箱のオブジェもいくつか作りましたけど、これほど精密で大きさもあるものは、その後は作ってないと思いますね。
極限の追求この人のお仕事というのは、目的なんか何にもないんですけども、とにかくあるものに興味があったらそれにずっと突き進んで、最後の極限まで行く。極限まで行くということにいつでも命をかけたのですね。さっき皆さんにちょっとお見せした本(『PTOLEMAIOS SYSTEM 翼・揺れる黄緯へ』)、これは作品としては、ある種の極限を追求している、極限を追求するということは、一発で決めるものではないんです。いくつもつながってどんどんやるから、つまり、出来上がるものは連作になります。
だいたい加納さんの作品は全部連作です。どんどん連なって行く。そのうちにほんとに極限状態まで、いけるところまで行って、それを全部集めると、こういうものになります。これは単なるその一つの例に過ぎない。
『アララットの船』という命名をしたのはぼくなんです。アララット山に漂着した船、つまり「ノアの方舟」という意味でありまして、これも想像しただけの、想像力の産物。写実的な意味は何もない、何を表しているってことは一切ありません。ことばによって、新しいものを存在させてしまうということですね。
この場合には、大別して十六種類の内臓があって、それにプラスして付随する機関のいくつかということでやっている。すべて加納さんが命名してるんだけども、一つ一つ部品に全部、名前があります。一番最初が『フライング・マシン』。それから、『砂の嘴・まわる液体』、これは内蔵されているぼくの詩集の題です。その次に『制作ノート』。ちゃんと書いたものをきちんと丸めて、確か、紙を油で揚げてあると思う。それははがせば、ぱかっといってしまう。独創的なアイディアですね。それから、ほかのものでは『プラネット・ボックス』とか。あるいは、難しい字をいっぱい使っているんですが、『引力・葡萄の葉』。葡萄の葉が引力とどういう関係があるかわかりませんけど。それから、『眼球スペクトル』。あるいは『影武者』なんてのもあります。
共同製作者という立場にある私でさえ、これらの命名がどの部分をさしているかわからないものがある。現在の日本では、こんなばかばかしいことをやって、芸術家として許される人はなかなかいないですね。そういう意味ではぼくらは、加納さんもぼくも、ある意味ではとても恵まれた時代に所属したのかもしれないとは思います。これで、要するにペテンにかけたわけです、見る人全員を。これを『アララットの船』ですって言うと、『アララットの船』で通っちゃうんです。だけど、「『アララットの船』、何それ?」と言われたらおしまいなんです。そう言われなかったのがぼくらの非常な幸運だったのかもしれないと思います。
「加納さんという人は絵描きですか」と聞かれたら「わかりません、違うでしょう」と言うし、「彫刻家ですか」と言われたら「いや、違うと思います」と言う。しかし絵描きのこともやったし彫刻家のこともやるし、何でもやっている。イラストレーターも。そういう点では、十八世紀のフランスで大活躍した、ディドロとダランベールという『百科全書』(Denis Diderot, Jean Le Rond d' Alembert, Encyclopedie :ou, Dictionnaire raisonne des sciences, des arts et des metiers. Paris : 一七五一〜一七六五)を作った人たちがいた。『百科全書』は、人間の知性の歴史を探る上で、重要なものです。そこに入っているいろいろ人間の知識、おうちを作ることからお料理を作ることとか、それは全部知識ですね。知識全部を体系として見ることを可能にしたのが『百科全書』一派です。加納さんは、いわば今どきになって百科全書派をやったんです、一人で。そういう感じがするのです。
さて、ここにお見せするこの絵は小さい絵で、もうかなり紙も古びていると思いますけど、これは、五千円だった。タイトルは『波』。ぼくが生まれて初めて、コレクションした最初の作品です。これは加納光於さんの二回目の展覧会が一九六〇年に東京の日本橋の南画廊であったときに見に行って、この絵を買ったのです。高いのは二万円ぐらいするのもありましたけど。五千円でも、一九六〇年ですから、ぼくはまだ新聞社に勤めていたころで、小遣いを五千円はたいたということも印象に残ってます。
この絵で加納さんと親しくなって、それから画廊で話して、ちゃんと会うようになって、鎌倉のうちへも行って、やがては「大岡さんもやってみない」と言われて、版画をちょっと試みた。試みて、これはだめだからやめようというふうに思ったのは、私がよくわかっていたということを示しています。
加納さんのお弟子さんはほかに一人もいないと思いますけど、ぼくは弟子。これをこうやる、ああやるということを教わって、いろいろ作ったんですから。作った作品もどこかにおいてあると思います。ぼくの作品なんです。それを見ると、一応版画をやっているというのがわかるくらいのものではある。
加納さんのアトリエというのは、ほんとに木工所ですね。のこぎりとか木工の機械の鏨(たがね)とか、銅板を切るやつとか、そういうのがいっぱい、実にきれいに並んでいる。その木工所みたいな場所で芸術作品が作られた。細かいことをやる人で、だからあんな仕事ができるんですね。
この人がいったい何を目標に作っているかということを、考えて文章に書いたのがあるので、それを奈良さんに読んでもらって、今日のお話をおしまいにしたいと思います。ある長い文章の短い一節です。
(朗読)
私はときどき加納光於から、連作が急ピッチで膨張しつつあることをきいていたが、実際にその全貌をまのあたりにしたとき、圧倒され、感動した。ここには、脳髄の中に押しとどめることのできない創造的な渇きと疼きを保ちつづけている人の、憑かれたような視覚の旅の記録がある。それは、目と手を媒介にして加納光於が実現した、〈極限〉の観念への飽くことを知らぬ攻撃の記録であり、全力をふりしぼって細部のくまぐまを転写した彼自身のミクロコスモスのイメジであった。〈極限〉というものは、われわれの思惟の中では特定の物質のイメジとして現れることはない。それは、もちろん物質とともにしか考えられないものだが、むしろ物質の消滅する瞬間に閃くある状態といった方が正しいように思われる。それは状態であって、ものそのものではない。状態である以上、それは一定不変のものではあり得ない。つまり閃くように現れ、また消えるものにほかならない。だからこそ、人は常に極限の観念にとり憑かれる可能性をもっているのである。
加納光於は、早くからこの〈極限〉の観念に憑かれてきた。したがって、彼はメタフィジックな画家としての資格を早くから備えていた。だが、彼はまた、画家として、版画家として、オブジェ作家として、物質というものが直接に人間の近くに関わりを持つ領域へのフィジックな関心を、稀れなほど強く持っている人でもある。〈極限〉の観念を単なるメタフィジックな状態として容認するには、彼はあまりにも物質の呼び声に敏感であった。彼は、〈極限〉という状態を、視覚の直接性の中にとり込もうとせずにはいられない。
(朗読終わり)
極限の実体どうもありがとう。難しいことを言っているように見えますけど、たいして難しくはない。日本語というのは、こういうことを言おうと思うと難しくなる傾向があるんですけど、要するに、「極限」、リミットというのは実はどこにもないんです、実際はね。だけどその極限があると仮定して、そこを一生懸命攻めるというのが、芸術家なんです。芸術家というものはみんなそうのはずなんですけど、加納光於という人はその極限に迫るということしか、興味がないと言ったらいいかな。
例えば、きれいな山がある。山を写実的に写す、そういうことが絵描きの仕事だと思っている人もたくさんいて、それはそれで十分いいですね。そういう絵を見て、人が大勢喜ぶわけです。だけど加納さんはそんなことは一切しない。とにかく自分の、これの極限は何だということを考えたら、それだけをものすごく追求する。
一つのことを追求するということは、同時に一つの状態を追求するわけですね。ものじゃなくて、状態。その状態は常にそこへ近づけば近づくほど、変わります。変わっていくから、極限というものはどこにもない。ないんだけど、追求するという意味では常に極限は人間の心の中にある。その心の中にあるものを、ものとして一瞬一瞬つかんでいく。だけど、そのものはこれが極限だということはあり得ない。これが極限だって言ったらそれはうそ。極限というものは、まったく見えないものとして存在している。はっきりと存在しているんだけども、見えることはない。これがおもしろいんですね。
加納光於という人はそのことだけに夢中になっている人だと思います。そういう人がきれいな色を使ってやっているという特殊性が一つの矛盾で、矛盾ということがあるからこそ、芸術が成り立つんです。矛盾がない芸術なんてものは、芸術の名に値しないものだと思います。
加納さんという人は、ぼくの感じでは現代日本に生きているいろんな芸術家の中で、鮮やかに芸術家としての仕事をしている人という感じがいたします。しかし、ご本人は鎌倉山の中で、毎日毎日こつこつと、木工所で作っている。大芸術家なんてことはまったく関係ない人です。
今日は話がぽんぽん飛んでしまって申し訳なかったですけど、八時になりましたから、失礼します。ありがとうございました。
二〇〇二年十一月二十二日 十八時〜二十時
於 東京増進会御茶ノ水ビル六階