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二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜 大岡信フォーラム ・om-forum.org |
月例フォーラム/平成14年10月
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※平成14年10月18日に行われた第六回月例会の記録
調理室−駒井哲郎に
追悼 日野啓三こんにちは。皆さんだんだん慣れてきたものですから、始まる直前にいらっしゃる方がほとんどですね。大変結構です。
今日は、大役がありましてね。仰せつかってそれをやってきたんですが、そのためにいろいろな予定がとても狂ってしまった。今日(十月十八日)の朝日新聞夕刊に、私が書いた追悼文があります。追悼されているのは日野啓三君という小説家です。
日野啓三君は、旧制一高のときからの知り合いです。今は東大駒場になっていますけど、東大駒場と旧制一高とは場所は同じところに寮がありますが、性質が全然違います。旧制一高というのは全く自由な、勉強したいやつはするけど、したくなければしなくていい、ただ落第しちゃえばいいというところ。東大はそうはいかない。東大は東大らしく秀才でいなくちゃならないということになっていると思います。
ぼくは旧制一高の最後の卒業生で、一級上にいたのが日野啓三。この人は旧制一高のときに、一年に一回しか出ない文芸新聞の編集長をやっていました。その次の編集長がぼくです。そこで旧制度の第一高等学校というのはなくなってしまったので、ぼくは旧制一高の最後の文芸雑誌の編集員だったわけです。
ぼくは、彼が文芸委員をやっていたときにその新聞におそるおそる投稿したんですね、詩を。そのころは、紙をはじめ何にもなかったですから、貴重なものだったんですけど、その新聞の第一面の下のほうを全部費やして、ぼくの詩が載ったんですね。それで、ぼくは面目をほどこしたわけです。それがきっかけで日野啓三とは友人になりました。それから、五十五、六年になりますね。その間ずっと友達でいて…。
日野氏と読売新聞日野はぼくより一年前に読売新聞社へ入ったんです。もう一人文芸雑誌の仲間がいて、という、今、推理作家ですが、彼とぼくは同級生だった。二人とも就職試験を受験するんですけど、だいたい全部落ちるんですね。そのころは受験するといったら、たいていジャーナリズムだった。ジャーナリズム以外はほとんど行くところがなくて、しかも、そのころのジャーナリズムというのは、今とは違って、社会的地位もそんなに高くはなかったと思います。
ぼくらは、読売新聞を受けたんですが、それは、一年前に日野啓三が読売新聞に入ったからです。読売新聞の外報部に彼が入って、それでぼくらに「読売はいいよ」と。「いいよ」というのは「はいれるよ」ということです。佐野洋と二人で、じゃあ受けようかということになった。
ぼくは七つぐらい受けて、受かったのは、共同通信。共同通信は、三人しか受からなかったんですね。その中の一人はどこかの大臣の息子で、だからこれはもう完全にコネで入った。「優秀な」成績で入ったのはぼくだけなんです。でも、読売新聞が受かったものですから、ぼくは読売に行くことにした。共同通信にはそれは言わなかったけど、「申し訳ありませんけど、ちょっとさしつかえができまして…」ということで、許してもらった。共同通信は受験生にお茶まで出して接待してくれたんですけどね。だからとても共同通信には申し訳なかったんですけど、結局、読売に日野がいるから、行ったんです。
日野啓三は外報部、今の国際部にいて、おれは外報部長に、「今度入ってきた大岡というやつは、すごい語学の天才で、ギリシャ語ラテン語なんてかるくできちゃう」と言っといたからと言う。ドイツ語もフランス語も、英語はもちろんのこと、すごい語学の天才だってホラを吹いたんです。ぼくはぞっとして、「もし試験されたらどうすんだ」と言ったら、「大丈夫だお前、絶対そんなことされない。なぜならばあいつはギリシャ語もラテン語も何にも知らないんだ」と言うんですね、部長のことを。それでぼくもほっとしたんですけど。その小林さんという部長は、大変に好意的にぼくを入れてくれたんですね。
ベトナム派遣つまり、日野啓三は、そのころからの、友達というよりはいろんなたくらみの仲間だった。ぼくは読売新聞を途中で辞めちゃいました。佐野洋はぼくより前に辞めました。二人ともそれぞれ自分の物書きの仕事をなんとかやりたいと思って辞めてしまったのですけど、日野啓三は辞めなかった。辞めるとやっぱり食うのが大変だということがもちろんありますから。わたしも、女房子供を苦難の淵に追い込んだんですが、何とか救ってくれる人々がいて、それでやってきたわけです。
日野はがんばってずっと居残って、そのうちに気がついたら読売新聞の看板記者になっていた。彼は語学は天才的にはできなかったですけどね。外報部にいたくせに。あんまり語学を一所懸命にやらなかったんですね。だけどもその代わりに、韓国やベトナムへ、読売の記者としてはたぶん最初の特派員だったと思いますけど、行って、さんざんに鍛えられちゃったんですね。特にベトナムは二回行きました。ベトナム戦争の前線記者として仕事して、ベトナムから帰ってきたら、「おれは小説家になる」と言ったんです。あまりにもすごい戦争のすさまじい姿を見た、と。小説しかそういうことを表現できないと言うんですね。それで小説家になりました。
小説家になったのは三十七歳のときです。三十七から始めてもあんなにたくさんの小説を書いた。彼は、小説家としてもらうべき賞はほとんど全部もらいましたね。そういうことができるんです。そしてついこの間、死にました。
癌との闘い死ぬまでに十二年間、癌をかかえていた。その癌は、最初はたまたまアフリカへ派遣されるというので、その前に会社の診療所で健康診断を受けたら、診療所で、「日野さん、これはおかしい」と言われてね。もっと大きな、ちゃんとした病院で精密に検査してくれと言われて、やってみたら腎臓癌が発見されました。もしそれを知らずに行ってしまえば、ものすごい重症になったと思いますけど。すぐに入院して、即刻手術です。助かりましたけど、三年間ぐらいは、免疫作用のために大変苦しんだ。新薬をずいぶん試された。それでやっと生還したんですね。
でも、気がついたら今度は腎臓癌だけではなくて、膀胱癌、それからさらに大腸癌、鼻の癌ですね。そういうものになった。その傍ら、蜘蛛膜下出血を患っているんですね。長いあいだものすごい苦しみをさせられながら、耐えて、生き延びた。その間に代表作になるような長編小説をいくつも書いて、最後はこのあいだ集英社から『落葉 神の小さな庭で』という本が短編集としては最後に出た。そのあとで、もう一冊、これはユーラシア大陸をめぐっての『ユーラシアの風景』という、彼の長期間に渡っての旅行記ですね。両方ともとてもいい本です。
ぼくはその因縁から、葬儀委員長をやらされて、ついさっき、ここまでモーニングを着てきました。この下で着替えたんです。モーニングで今日は一日過ごしましてね。葬儀委員長あいさつというのが、うまくいくかなと思ってやったんですけど、なんとかやったから、よかったなと思ってます。日野の奥さんも、日野の一人息子も大変よかった、うれしかったと言ってくれました。
余計なこと読売新聞は、この看板記者が死んだからというので、きのうのお通夜のときは、会長とか、社長のさんが来ていた。会長というのはぼくらの外報部のちょっと先輩のさん(水上健也)という人です。それ以外にも何人か、社の上層部がみんな昨夜は来ました。そのために、わたしとしては、落ち度があっちゃまずいと思ってかなり緊張しましたけども。落ち度というのは、わたしは必ずなんかやらかすんですね。息子も葬儀に来てたんですけど、あとで一つ叱られました、余計なことを言ったので。
それは、このごろ、ぼくらの文学仲間だったやつがだんだん減っているわけです。当然ですけど。日野の直前に、つい二、三ヶ月前に死んだのが、東久留米市長をやっていた男で、東大の社会学の有名な教授で、社会学の研究所の所長だったくんです。ですから、葬儀委員長のあいさつのときに、そういう略歴みたいなことになんとなくふれちゃったんです。そして、ぽろりと最後に「おっつけ私もその次ですから」なんて言っちゃったら、参列していた人は凝然とした人とくすっと笑った人と両方がいました。息子は怒っていました。ばかなこと言って、と。こういうばかなことをやったってことはお母さんに必ず言うからなって。だからもう私、先にお母さんには言いました。しかしちょっと余計なことを言ってしまいました。
まだ少しはぼくも生きているでしょうけど。いずれにしても、もう我々は七十を過ぎましたから、いつお召しがあってもちっともおかしくないような年齢にさしかかった、ということだけは確かです。
銅版画家 駒井哲郎今日お話しする予定の人は、彼の名は前に申し上げたこともありますし、この人の版画をどこかでご覧になっている方が多いと思いますけど、さんです。「てつお」ではありません。テツロウ・コマイとローマ字で署名してあるからわかります。駒井哲郎について話をすると、いろいろ長い話もありうるんです。しかし、そういうことをして無駄をするのはまずいので、今日は一応、駒井哲郎という人の仕事についてと、それから私は駒井についても、七、八回、いろいろなところに文章を書いたことがあるんですが、その中の一つか二つをいつものように奈良さんに読んでいただいて、それからその他のお話もいたします。
駒井哲郎は銅版画家です。銅版画は、まったく日本では歴史の浅い仕事ですね、ドウハンとかドウバンとも言いますが。銅版画というものの歴史の中で、駒井は、戦後の時代になってもっともいい仕事をした人の一人であるということは明らかです。
それだけではなくて、銅版画の啓蒙活動を、ほんとうに立派にやったんですね。彼の『銅版画のマチエール』という本があります。これは駒井が大変に尊敬して師事してもいた洋画家のさんの『油絵のマティエール』という名著と、ちょうど並ぶようにして、駒井の死んだ直後に本屋に出ました。
この本についてわたしは、ある機会に、文芸作品として紹介したことがあるんですね。朝日新聞の「文芸時評」という欄を、二年間、ぼくが持っていたときです。その「文芸時評」の欄を費やして、駒井哲郎の『銅版画のマチエール』について書いたんです。朝日新聞の読者はたぶん「なんだこりゃ」と思ったと思います。この人、何考えてるんだろう、と。つまり、「文芸時評」というのはだいたい小説について書くので、あの欄で詩とか短歌とか俳句について書くというのはよほどばかだと思われているわけです。わたしはそれを平気でやったんですが、そのばかな方の筆頭として、ある日、駒井哲郎の『銅版画のマチエール』を紹介し、論評しました。これはそんじょそこらの物書き、小説を書いたり評論と言われているものを書いたりしているような人の書いた文章よりも、ずっと上等だからです。それをあとで奈良さんに読んでもらいます。
その上で、彼は版画家であるけれども、版画家以上に本当の意味で立派な芸術家だったとぼくは思ってますから、それについて、今日時間の許す範囲内でお話ししたいと思います。話があちらこちらに飛んじゃうと、まずいから、とにかくそこに一つはしぼろうと思います。
文章家 駒井哲郎版画家であるけれども、文章はすばらしかった。その理由は何か。これは非常に簡単です。簡単ですけど、これをやれたら立派なものです。ここにいらっしゃる方々が、そういうことで何かもし参考になるようなことがあればいいと思うので、その話をしようと思います。文章を上手に書くにはどうしたらよいかということですね、簡単に言うと。
そんな話をするなんてずうずうしすぎると思いますけど、でもぼくは文章を書いている人間は、これから文章を書こうとする人、あるいは今、文章を書こうと思ってもなかなかうまくいかないと思っているような人に、なんらかの意味でアドバイスできるということがあれば、文章を書いて売るということまでできる資格があると思います。そういう資格のない人が今多いから。文章を書いていながら、自分がどういう意味でこういう文章を書いているのかということさえも説明できない人、そういうのはわたしはあまり好きではありません。文章というのは、自分が書いているものは説明できなければいけないですね。ぼくみたいな考え方をしているのは、ダサいということになると思いますけど。しかし、これはとても大事な、ものを書く人々にとっても第一に心に置くべき条件だと思いますね。
そういうことを、駒井哲ちゃんを素材にしてお話しします。「哲ちゃん」と呼びましたけど、普段はぼくは「哲ちゃん、哲ちゃん」と言っていました。この間亡くなった安東次男さんという詩人・俳人がいますけど、安東さんと駒井さんは仲良しで、家も世田谷の、駒井哲郎は桜で、安東次男も近くに住んでいたんです。よく往き来していた。安東次男はそのために駒井哲郎とは二回、詩画集を作った。すばらしい詩画集。今日、そのうちの一冊は持ってきました。
『からんどりえ』これは今、お話ししちゃったほうがいいな。余計なことを言ってると次々に忘れてしまいますから。これは駒井哲郎と安東次男が作った詩画集。これは、四十部ぐらいの限定版ですね。ぼくの持っているのが、十四番です。
版画の本というのは、だいたいこういうふうに一枚ずつばらになっているんですね。赤い字で数字が書いてある。これで十四冊目ということがわかります。版画の場合は、こういう番号がついていて、一番から四十番までとかいうことになりますが。表題は、『からんどりえ(一九六〇 書肆ユリイカ)』。「カレンダー」という意味ですね。暦です。一月、二月、三月というふうに安東次男の短い詩があって、それに対して駒井が絵をつけているんですね。
今、お見せしたのは十一月で、題名は「樹木」。これがその絵です。十月は「いちまいのナイロンで」、十二月の題はは「Une Nature morte(静物)」で、詩が長い。こういう形で一枚一枚ばらばらになって入っています。
制作の現場これらは銅版画ですから、一点一点、刷りをするときに神経を使うんです。銅版画を刷っているところは、実に自分でやってみたいと思うようなものですね。ぼくぐらいの小さい体でやると、ちょうど手をいっぱいに伸ばしたぐらいの大きさの取っ手をつかんで、銅板のローラーを回すんです。ぐーっと回す。たとえば自転車の車輪のスポークがありますけど、ああいった形で中心から一本延びている取っ手をつかんでぐるっと力を入れて回すんです。力がすごくいります。
回す取っ手の真ん中にローラーがありまして、固くて重たい円筒です。それをぐーっと回すと、版画が一枚ローラーの下から押し出されて、ちょっと濡れた状態で出てくるんですね。それをそっとはがしとると、やっと一枚できる。
一点一点が実に丹念に彫られていて、一枚一枚ローラーで印刷するのが実は大変なんですね。これをやっていたころに、わたしはときどき遊びに行っていましたけど、手伝おうと思うけど、もしローラーが回らなかったら恥ですから、わたしはやらないで見ていました。安東次男はときどき、やって来た。アンツグさんは自分のものができてるからうれしくてしょうがないんですね。それで手伝うんです。安東次男は、やせていて、ぶら下がっちゃう感じなんですね。それをそばにいて冷やかしたりすると怒ってね。とにかくそういう運動をするわけです。それが楽しかったんですね、きっと。ローラーを回すというのは、銅版画を作る人のたいへんな苦労ではあるけども。
出てきたものを、はがして、見る、そして、ああ、あそこがだめだった、ここがだめだったとか言って、一生懸命直すんです。直して、また直して。それからまたしばらくたってぐーっとやる。何度も回してやっと一つの作品が完成されるというわけです。
版のナンバー書いてあるのを見ると、フランス語で、一から七まではBFK Rives(リーブス)という紙ですね。リーブスという紙は銅版画家の一番大事な紙です。それから、あと三十冊は、パピエ・ル・ジャポン、日本の紙で、八番から三十七番までが数字を書いてあると。そして、作者の安東次男さんとイラストレーター駒井哲郎ですね。この二人が全部に署名してある。左右にテツロウ・コマイ、ツグオ・アンドウ。これは万年筆でやってますけど、二人別のペンを使って、書いてますね。ぼくのは十四番ですから、もちろんリーブスではなくて、日本の紙です。日本の紙で、版画用に作られたもの。悪くはないけども、だんだんやっぱり色があせてきますね。リーブスの紙だったらまず変わりません。ものすごくいい紙ですからね。こうやって一枚一枚ぐるぐる回しては一つずつ出す。そういうことを三十七枚ずつ、ものすごく大事にやるわけですね。
三十七枚ずつでは終わらなくて、それ以外に作者と、つまり詩の作者と版画家と両方が、三点から五点ぐらいですかね、特別に番外を作るんですね。そういう番外には、何番と書いてないんです。代わりに番外という印にちょっとメモしてある。それがごくごく親しい人に贈られる。だいたい、その番外が状態としては一番いいんですね。力をいれてぐーっとやると、ローラーをやるたびに版を押しますから、当然、すごい圧力がかかるので、一枚やる毎に、少しずつ版がいたむ。実に微妙ですけど、版の線が甘くなってくる。作品の線がだんだん鈍ってくるんですね。
ですから、ナンバー外の番外本は出来はいいんです。皆さんが、版画をどこかで買うときには、そこを見ないといけない。○/100などという場合、百点とも一つの作品という意味ですが、百番ぐらいだったら、まずたいてい線がつぶれています。だから番号が若い方がいいんです、一般的に言って。
版画といっても、駒井さんのやっていたエッチングなどの場合には、たいへんに彼は厳密にそういうことを求めましたから、作品も昔のは、銅の版ですね。今はそれと同じようにしてジンク版(亜鉛)を使って作る場合が多くなっています。そのジンク版を、うすく、補強してやるんですね。そうすると傷みはないのですけれども、昔ながらの版画家たちにとっては、そういうことはやりたくないというのがある。本物とは違うということはありうるわけですね。最近は、そういうものも増えていると思います。駒井さんの場合はそういうことはしなかったですね。
でも彼は技法的な意味ではものすごく研究熱心でしたから、いろんな研究をしていたんです。そういうことが、さっきお話しした『銅版画のマチエール』という本に長く書いてあります。
安東次男の詩『からんどりえ』の中味を、もう少し、見ましょう。詩だけの場合はこのように活字ですね。その次の月には絵としては、題名は「球根たち」。植物の球根ですね。「たち」とわざわざ言っているのは、球根がたくさんあるということ。球根がいくつあるかっていって誰もどれが球根だかわかりませんね。アンツグらしいや、命名のしかたがね。安東次男さんは、ときどき自分の主観的判断において、「たち」にしたり、ただ何にもない単数にしたりということをやりましたから。ただ、これは確かに球根がだぶってある感じですね、右と左に。これは駒井哲郎が好きだった楕円形のフォルムを活かして作った作品です。この版画は六月、ジョアンという月の詩につけてあります。これなどは、駒井のこの時期の作品の代表的な作品の一つです。
これはまたかなり変わっている。「道化」というのは五月という月の絵です。こういうふうなちょっと具象的な感じの絵もあります。
これは、駒井哲郎がこの時期に好きだった魚の絵ですね。魚そのものというよりは、どこか幻想的な魚です。二月という題ですね。この詩は有名な、「霙(みぞれ)」という題の詩。
「霙」(詩)地上に届くまえに
予感の折り返し点があつて
そこから
腐乱した死んだ時間たちが
始まる
風がそこに甘皮を張ると
太陽はこの擬卵を温ためる
空の中へ逃げていく水と
その水から零れ落ちる魚たちは
ぼくの神経痛だ
通行止の柵を破つた魚たちは
収拾のつかない白骨となつて
世界に散らばる
そのときひとは
漁
泊
滑
泪にちかい字を無数に思い出すが
けつして泪にはならない。
わかったようなわからないような詩ですけど、アンツグさんらしい、特色のある詩です。一月は「氷柱」という詩でして、これもなかなか手がこんだ作品ですね。
題名が『からんどりえ』とあって、それは黒ではなくて、茶色に近い赤ですね。そこに安東次男の詩と駒井哲郎の絵というのがある。その下に「ユリイカ」という社名があって、一九六〇年。一九六〇年というころに、こういう作品が出来たということは、日本の文学史並びに美術史の上ではやっぱり大事な作品ということになりますね。とにかくこれだけのものが、今から四十数年前ですけど、詩人と画家の共同制作としてできたということは特筆すべきことだったですね。
目次も型押しされて、装飾があります。こういうのも、紙にぐーっと食い込むぐらいですから、強い力で回しているわけですね。いいかげんにやるとずれちゃいますから。だから力を出してやるわけです。こういうふうにして、一冊の詩画集ができてます。できるまでには大変な苦労があるわけですね。こういうことを駒井哲郎はやっていました。
表紙も、セロファンが貼ってあるからちょっとわからないけど、ここも立派な作品です。この作品がいいですねぇ。細やかなエッチングの効果が実によく出ているものです。これらすべて、みんなばらばらになりますから、本から出していいかげんに扱うとあとで元どおりにするのが大変なことになりますが。
『銅版画のマチエール』駒井さんの作品は、実にたくさん残されたのですけども、彼は若くて死んでしまいました。舌癌です。死んだころには大変な痛みがあって、特に右手がしびれてしまって、銅版画を作ることができなくなったんですね。細かい字を書いた人なんですけど、それもできなくなってしまって、最後は、奥さんに向かって口述して、口述筆記されたものが、先ほどお話しした『銅版画のマチエール』という本になって残ったわけです。
その本は、彼が死の床にあったときに全部書きあがって、大急ぎで印刷したんですけど、ついに間に合わなかった。本が出来上がったときに、ちょうど彼が死んだんですね。ですから、彼はついにそれを見ずに死にました。お葬式の日に、その本を一冊お棺の中に入れて、さよならしたんです。
そのことを、当時わたしは朝日新聞の「文芸時評」で取り上げたんですね。異例なやり方でした。ぼくはその中で一番書きたかったことは、駒井の書き方、書いているスタイル、そのことについて論じたかったんです。そのことは今から奈良さんに読んでいただく論文の中に出ています。読んでいただく前に、ちょっとその本を「文芸時評」の中でとりあげた理由のついて別のところに書いたものがあるので、そこのところだけご紹介しておきます。
駒井哲郎が死去した直後に、遺著となった『銅版画のマチエール』(美術出版社)が上梓された。駒井氏は完成した形でこの本を手にとることはできずに亡くなったが、製本寸前の、ほとんど完成状態になっているものは病床で見ることができた。その一冊の本は、未製本のままで棺の中に入れられ、駒井氏の肉体とともに天にかえった。
私はたまたま一九七五年から七六年の二年間にわたって書いてきた朝日新聞の「文芸時評」最終回の結びを、この本の紹介にあてた。文芸作品を取上げることを原則とする欄で、画家の書いた、それも主として銅版画の技法を論じた文章によって多くのページが占められている著書をあげつらうことは、異例といえば異例のやり方だった。しかし、私はこの本を読んで、文芸雑誌にのっている売文稼業の文学者たちの文章よりも(かなり挑戦的ですね)、ある意味でずっと文学的な感銘を与えられたのだった。そこには、たしかに物を見、たしかにそれを言葉の世界で表現している人がいた。私はそのことに対する感銘を限られた紙数の中でだが、書きしるした。その文章を以下に録しておきたい。
と書いて、今から読んでいただく「時評」が引用されています。では、奈良さん、お願いします。
駒井氏は十一月二十日、舌癌の肺転移のため死去した銅版画家である。『銅版画のマチエール』はその死の直後に上梓された、文字通りの遺著である。現代美術に少しでも関心のある人なら、戦後の美術界に彗星のように登場したこの典雅でさわやかな銅版画の作家を知らない人はいまい。この画家は鋭敏な眼と腕をもち、文学、ことに詩を愛し、銅版画のをきわめることに熱烈な意欲を燃やし、日本にはまだ数えるほどしか存在していなかった本格的な詩画集の制作にうちこみ、何冊かのすぐれた詩画集を実現した人である。
『銅版画のマチエール』は、かつて駒井氏の師岡鹿之助がした、名著のほまれ高い『油絵のマティエール』としくも一対をなすような本となったが、作者にしてみれば、こういう本を書くよりも、病魔をふり切ってもう一度銅版画制作にうちこむことこそ心からの願いであっただろう。この本は、第一部で銅版画の技法が詳説され、第二部には駒井氏が最も愛した銅版画家たち数人についての作家論が並べられている。ジャック・カロ、シャルル・メリヨン、ロドルフ・ブレスダン、オディロン・ルドン、長谷川潔その他。
私は銅版画制作の実際についてはほんの少しの知識をもっているだけだが、駒井氏の本の第一部、技法編を読んで感心したことのひとつはこういうことである。技法について書くということは、多くの場合、無味乾燥に陥ることを避けられない。ところが駒井氏の文章は、ひたすら無駄なおしゃべりを排し、正確さをむねとして書かれているだけなのに、その正確さそのものの中から、銅版画というもののまことに繊細微妙な感触が、ほのかににおい立って感じられてくるのである。それは筆者がいかに銅版画というものの世界に深くひたり、研究をかさねてきたかを語る以外の何ものでもないのだが、実際にそういう例に出会うと、目を洗われるような思いがする。そして、これは文学の場合だって全く同じことではないか、とあらためて思う。
第二部のメリヨン論やブレスダン論は、癌転移の影響で右腕が激痛におそわれるようになり、画家としてはもはや致命的な状態となってから、病床で夫人に口述したものだときく。しかし、この二つの文章のどこにも、そういう苦悩の影すら見えない。画家は自分が愛してやまなかったこれらの銅版画家の、何度でも執拗に版を修正しては完成を求めつづけた狂気について静かに語っている。
「メリヨンの銅版画は、パリ風景という主題によって達成された一つの極限であり、そこには異常ともいえる集中が見られる。このような仕事こそ永遠に人の魂をゆさぶり、とらえ、高めるのである。」
メリヨン論はこの一節で終っている。駒井氏もまた、最後まで「異常ともいえる集中」をもって生きたといえるだろう。そして、私たちはだれでもそうありたいし、そうある以上、その人の生は、一個の作品とよんでいいものになる。
(一九七六年十二月二十九日 夕刊)
奈良さん、どうもありがとう。私は、朝日新聞の読者たちに、こういうすばらしい文章によって版画の一つの技法を語り、その向こうに芸術の本質的なものをとらえていた人がいたということを言いたかったわけですね。その一つの例として、こういうことをも書きました。また読んでいただきますが、『銅版画のマチエール』第一部技法編。技法について語ったものというのは、だいたい無味乾燥なんですよね。つまらない。ところがそんなことなかった。ぼくはびっくりしました。駒井の哲ちゃんがこんなにもいいものを書いたのか。しかも彼は右手が使えなくなった状態で、癌がもうひどい状態。舌癌ですから、舌を切っちゃった。だから口もきけない。そういう状態で、病床で奥さんにほとんどささやくようにして、語り続けた。そのいきさつを知れば、彼のこの技法の本が、これだけ緻密に、すばらしい豊かさをもって書かれていたということは、驚くべきことだと思うわけです。
どのページを開けても、読んでみればすぐにわかるけれど、「平静な文章の運びに精神がたちまち感応し、心がみるみる静まってゆくのを感じることができる。」そういう感じがするということを、私は書きました。それで「たとえば」といって、一節を引用しています。まさに駒井の文章そのものなんですけど、ここは、少しゆっくり読んでいただいたほうがいいかもしれない。
銅版画というものがどういうふうに作られるかということ、銅版画といっても、ぐーっと版に彫り付ける場合もあるけども、酸を使って腐蝕することもある。腐蝕液に漬けると、腐蝕する。防蝕剤を塗って、腐蝕しないようにしてあるところは腐らないけど、塗ってない部分は腐る。そのあとで、液を全部ぬぐいさると、きれいな版が出て来て、腐蝕されたところだけが線としてへこみますね。それに今度は黒のインクを塗って、ローラーでぐっと回すと、紙の上に、その部分だけが黒々と残るわけで、そうやって版画ができるわけです。
エッチングというのは腐蝕版画ですね。腐蝕して刷る凹版というのがエッチングということばの意味です。そういうものを作るためには、どういうことをするかということを技法として書いている部分がある。そこのところを読んでもらいます。
エッチング(腐刻凹版)をやるためにはどうしても防蝕剤が必要だ。プレートの表面に防蝕剤をひき、そこに針で絵を描き、裏にも防蝕剤をほどこし、酸のなかにつけて、針で描いた線の部分を腐蝕させて凹みをつけるのである。裏に塗る防蝕剤は耐酸性と金属に密着する性質があればよいのだから、塗料店で売っている黒ニスをガソリンでうすめて用いることができる。また合成樹脂製の壁紙(すでに糊付けしてある)を版の裏に密着させれば、充分防蝕の役目を果す。この方法はいろいろな意味で便利なので、現在もっとも用いられているようだ。表面の防蝕剤はそこに針で描くのであるから微妙な性質を要求される。その表面に用いる防蝕剤は普通グランドと呼んでいる。
グランドは耐水、耐酸性、付着力はもちろん必要だが、ガソリンに溶解しやすく、比較的自由に扱え、乾燥しやすいこと。絵が描かれたとき針につかないように相当硬質であること。針の先で除かれたグランドがほこりのように吹き飛ばされるようさらっとしていること。針で描いた線が、緻密にまた縦横になった場合でもくずれたり、ひびわれたりせず、また描いた線が消えてなくなったりしないものが望ましい。――往々、悪いグランドを必要以上に厚くひいたりしてそのようなことが起こるのである。――そして現在、ロウと松脂と乳香、アスファルトの混合物はその要求に充分応じてくれる。
(「防蝕剤及びプレートの防蝕法」)
正確で暖かい文章どうもありがとう。あのね、そのあとで、さっき読んでいただいた私が書いた文章を再び引用しようと思います。ここでは防蝕剤のことを言ってますが、グランドって普通言うんですね。たぶんグラウンドという意味じゃないかと思うんですけど。
私は加納光於(かのうみつお)さんという、もう一人のすばらしい版画家と親しくして、いっしょに共同制作の作品も作ってますが、加納さんのうちへ行って、しばらくエッチングのお弟子になったことがあるんです。だけど全然だめでした。ですから、賢明にもすぐに諦めたんですけども。加納さんは、グランドの質そのものをうすくしている。薄くするということは作業が速くできる。加納さんは、速くしたかった。だから早い時期の加納さんの作品というのは、だいたいローラーで、五枚も作ったらもうあとはだめになっちゃう。つまり、傷んでくるんですね。しかし、グランドというのをこうやってやるんだというようなことから教えてもらった。褐色の液体で、ニスがグランドの基本を作っています。私はこの辺のことをこんなふうに書きました。
私はこの駒井さんの銅版画技法論が版画専門誌に連載されていたのを知らず、本になってはじめて目を通したのだが、一読、これは名文だ、と感心した。駒井さんはこういう文章を書くところまで来ていたのかと――ずいぶん生意気な言い方だがこの際許してもらうとして――嘆じた。この文章には無駄な描写がひとつもない。正確だけを旨としている文章である。それでいて、無味乾燥からは遥かに遠い。読んでいて心踊りがしてくるような楽しい運歩のリズムがある。それはなぜか。
第一に、駒井氏が書いていることは、読者の心に順次整然と入ってくるのである。それは正確に組み立てられてゆく知識として、脳裡に宿るように書かれている。たとえば今引用したエッチングの防蝕剤についての記述を見ると、エッチングには防蝕剤を使うこと――防蝕剤を使う理由――プレートの裏面には簡単な防蝕剤で十分であること(プレートの裏側は使いませんからね、絵としては。ただしその防蝕剤の塗り方によってはでこぼこができますので、それをうまく利用してやれば、裏側も版画を作ることもできるんですね。それによってとてもおもしろいものもできるんですよ。そういうこともあります)――プレートの表面には、裏面とはちがって微妙な性質の防蝕剤が必要であること――その防蝕剤をグランドを呼ぶこと(以上第一段)、グランドに要求される諸特性――とくに、針を使ってグランドの上に絵を描く時、最も適当なグランドの特性とは何か――感心しないグランドはどういうものであるか――右の要求に合致するグランドの成分としては、どんなものの混ぜ合せが一番適切か(以上第二段)という叙述の順序になっている。長くなるので引用をさしひかえたこれに続く第三段では、第二段で言及されたグランドの諸成分の一つ一つの働きと相互関係が、まず個別に、次に綜合的に、わかりやすく論じられている。
つまり、駒井氏の叙述は、大きな命題を最初に提示し、その命題に必然的に付随して出てくる問題を、ひとつひとつ、因果関係を明確におさえながら解明してゆき、その積重ねがそのまま技法のマスターとなるような知識と実践方法を、平明に記述しているのであって、そのため読者の頭は混濁や混乱に導かれることがないのである。簡単に言えば、駒井哲郎は、一つ一つの過程があざやかに目に見えるように、この技法論の文章を書いている。それは、いささか誇張して言えば、スタンダールが愛したような種類の散文のひとつになっていて、余計なことかもしれないが、文学志望の青年などは、こういう文章を読んで学ぶところがなければなるまいというのが、私の感想なのだった。
(余計なことを言ってますけど。こういうことはとても大事なことのような気がします。駒井さんが書いていることは、単なる版画の技法を論じているように見えますけど、実はそれをよくよく読んでみると、ほんとは文学的な文章の書き方とまったく同じなんですね。文学的な文章であっても、いい文章というのは、読んでいて、読者の頭の中に、すーっと一段一段、折りたたむようにしてだんだん積み重なっていく、そういうふうに書かれているのが正しい文章なんですね。文学においてそう。同時にこの版画の技法論もまったくそうです。だから駒井さんの技法論を読んで、これはわかんない、と言う人はやっぱりいろんな問題があると思いますね。それで、ここからがまた一つ大切なこと。)
駒井氏の技法論にほのぼのとした暖かさを添えているのは、「アスファルトは耐水、耐酸性があるが、アスファルトだけを精製ガソリンで溶解してプレート上に薄く塗り乾燥してから針で描いてみると、線以外のところまでばりばりとひびわれてはげてしまう。そこで粘度のある蜜ロウを混ぜるとそのようなことはなくなる」というような記述に見られる、技法的な失敗のケースの記述である。この種の記述はどの章にもさりげない形でいくつもあって、それがこの技法の書にまことに貴重な厚味と親しみを与えているのである。それらの失敗への注意は、いうまでもなく駒井哲郎自身の体験や、学生を教えていて直接に経験した事実を踏まえて書かれているものだろう。その意味で、失敗するケースの叙述のうちにこそ、駒井氏が版画家として獲得した知慧の最も大切な部分がひそんでいるともいえるし、少なくともそこに、駒井氏の肉声が最も柔らかに響いているということができるだろう。
実際、私は、たとえば今引用した個所について言えば、「線以外のところまでばりばりとひびわれてはげてしまう」というところを読むと、こみあげてくるおかしさを感じると同時に、「ばりばりと」という文字のむこうから、駒井氏のよく透る、笑いを含んだ声が急に響いてくるのを感じ、なつかしさに目がうるむのを抑えることができなくなる。
というふうなことを書いております。駒井哲郎という人はこういう技法の本を書いても、自分が失敗したことをとても大事にしているんですね。そして、ふっとなにげなく書いてある。だからなんとなくそれをすーっと読んじゃうとそれっきりなんですけど、あ、ここで駒井さんは失敗したってことを言ってるなと思って、もう一回読み直してみると実にいいんですね。こういう本というのは、ふつうは文学書の中にはたぶんたくさんあるはずですけども、いわゆる技法の本の中ではめったにないですね。失敗したということは、技法書を書く人にとっては許されないことだということがありますから、そういう意味で冷たくなっちゃうんです、叙述がね。だけど、駒井哲郎は平気でそういうことをすっと書いている。それはとても文学的な態度だと思います。
駒井さん自身は詩人的な人でしたから。十分、そういうことを意識しながら、これは大事だよって思うところはわざとそういうふうに失敗したようなことを、実例をあげて書いて言っているんですね。絵描きさんの中でこういう文章を書く人は少なかったと思うんですけど。
フランスで得たものこういう人がいて、私ははじめはあこがれて、そして知り合いになった。そういう人ととにかく話ができて、作品を見て、それから銅版を、エッチングなどをやるところを実際その場で見せてもらったということがあったのは、とても幸せだったと思います。
今の美術界の人たちも、そういうことはあると思いますけど、駒井さんはとにかく本格的な勉強をしっかりやったんですね。フランスへ、二年間ぐらい、輝かしいエッチャーとして日本から送り出されて行っていた。彼が行ったころはまだ一九五〇年代の初め頃ですから、日本としては非常に貧しい時代だった。かつての夏目漱石がロンドンへ行ったときと同じような気分で行ったと思います。自分のやろうとしているのは、日本ではまるでまだ人々が知らないと言っていい、銅版というもの。それをせっせとやったんですから、大変な決意で行ったと思いますけど。
同時にまた、彼はフランスへ着いてから、いろんな絵、たとえばルーブル美術館とかその他を見て回った。フランスはしょっちゅういい展覧会をやっているんですね。生きている人だったら個展、故人だったら展覧会をやるのが画廊とか美術館の義務みたいなものなんです。いつ行ったって、必ず何かすばらしい展覧会があります。そういうのをずっと見て回った。そして勢い込んでいた男が、ぺしゃんこになったんですね。全然言わなかったけど、明らかにぺっちゃんこになった。もうだめだと。そのくらいね、打ちひしがれた時期があったんですね。
それからあらためて、銅版画というものをやるためには、ということから考え直した。さっきでてきたシャルル・メリヨンとか、ロドルフ・ブレダン(彼はブレスダンと言っていましたけど)とか、これら二人のすばらしい版画家、伝説的なくらいに有名な版画家たちの作品に惚れ込んで、落ち込んで、そして、打ちひしがれて日本に帰ってきた。輝かしい人として行ったフランスから、打ちひしがれた人として帰ってきたんですね。
帰ってきたときは、名前としては輝かしい新進気鋭の版画家として有名だったんですけど、にもかかわらず、彼自身の心の中には重たいものがあったんですね、いっぱい。ずいぶん苦しんだと思います。そこで、コツコツと、それまでやらなかった写実的な樹木をせっせとやったり、あるいは魚の絵を書いたりということを始めて、やっと立ち直っていったんですね。立ち直り始めたころに、わたしは幸せなことに彼と知り合いになって、そして実際に彼のところに遊びに行って謦咳に接することができたんです。
不幸なできごとそれから十年ちょっとして、彼が大変に不運な事故にあったんですね。彼の自宅のすぐ近くまで来たときに、よく知られた人気者のコーラス・グループの車がどーんと来て、彼をはねた。駒井哲郎は背が高かったんですね。ほっそりした人で、見るからに貴公子の顔してね。今の美術界とか文学界の世界で、あれほど立派な感じの芸術家はほかにちょっと見当たらないくらい。神経質で、いい顔してました。色男です。車にぶつけられて、背がもう少し小さく、ぼくぐらいだったら、ぽーんとそのままはねられて、どっかへとーんと行って、大怪我ぐらいですんだんだけど、彼の場合は背が高かったから、足が高いでしょ、そこへ車がぼんと来たものですから、そのまんま体ごと車の中へ正面から入っちゃったんですね。車のガラスを突き破って、運転席の中へ入っちゃった。それはすさまじいことになった。脚が折れてしまった。おまけにへたくそな医者でした。手術して、病院で何カ月か寝たままにされていて、もういいだろうって言われてちょっと動いてみたら、あにはからんや、脚はぶらぶら。つながってなかったんです。それでもう一回手術したんですね。たいへんなことですよ。その病院もへたくそだけど、彼は運が悪かったですね、ほんとに。
そのために、彼は手の神経がすごく弱るだろうと思って、それはもう大変な苦労をしたんです、心配して。結局、エッチャーとしては大変にマイナスな大怪我ですね。やっぱりかなり手が動かなくなって、やっとある程度は動くようになったら、次のものが起きたんですね。それが舌癌です。切っちゃわなきゃいけない。かなり切ったんです。口もきけないんですね。そういう状態ですから、晩年はほんとうに気の毒でした。あんなすばらしい芸術家が…。こういうばかばかしいことでだめになるなんてことはありえないと思うんですけど、実際起きたんですね。
皆さんに、話したばっかりじゃ申し訳ないから、ここに並べますから、ご覧になりたい方は見てください。
駒井の話になるとどうしても長くなっちゃう。まだまだいっぱいありますけども。とにかくこれだけでも、まあ駒井という人がどんな人かということは多少おわかりいただけたと思います。
* * *
【展示の「大岡の月」の絵について】
前回、ぼくが、皆さんに、そこを出ればありますって言った絵です。ところが、階が違った。下の階の、簡単に入れないところにありました。それで、ここへ持ってきました。これが「大岡の月」という題の、サム・フランシスの絵です。彼が、おまえにあげるというから、ぼくが題はどういう題なんだって聞いたら、じゃあいいや、絵の真中に月があるから「大岡の月」だと言った作品です。
【展示の駒井哲郎氏の銅版画について】
安東次男という人は「いばりの安東」というあだ名だったんです。駒井哲郎の命名でした。なんでもいばる。ぼくらはしょっちゅういばられていた。必ずやりかえしていましたけどね。彼がなんかやって、「どうだ」なんていばると、「ああ、たしかにたいしたものだ。しかし、えらいアンツグさんでもとても松尾芭蕉にはかなわないね」なんてやり返すと、「うん、そりゃそうだな」って、その点では素直な人でした。
いばりの安東がいばっている最中に、かならずぼやいていたのが駒井哲郎で、だから駒井さんは私の命名では「ぼやきの駒井」なんです。そういう二人の作品が、これが第一冊目で、第二冊目が十年ぐらいたってからできた次の詩画集で、『人それを呼んで反歌という』という。これも安東次男の詩集の題です。私も実は駒井さんと、彼がいっしょになんかしましょう、作ろうって言っていたんですけど、彼は死んでしまった。残念なことをしました。
駒井さんと組んで、ある詩画展の仕事をしたのが最初で、ただしそれは、ぼくの詩を駒井さんが選んで、そしてそれに絵をつけたという形のものだったので、共同制作ではなかったんです。これがそのときの作品です。「物語の朝と夜」というぼくの詩の一節を、駒井哲郎の手で書いてある。
これともう一つ、「海辺の貝」。貝殻の絵なんですけど、その二つが、新橋にあった「画廊ひろし」で行なわれた「ユリイカ創刊十周年記念展」に出品されました。「海辺の貝」の方を買ったのは、詩人の岸田衿子さんでした。「物語の朝と夜」の方は、駒井さんが「これあげる」といってくれた記念的な作品なんです。大事にしてます。でもやっぱりだんだん紙があせてきましたね。紙は戦後の悪い時期のものですから、どうしても。こんなものにはフランスのリーブスなんて使わないですね。これも近くによってみると、ちゃんと真ん中にヨットが見えます。
それでは、これでおしまいにいたします。
今日は、詩は読めなかった。申し訳ない。
自己宣伝を一つします。ぼくの次の詩集、これが十一月十五日に出ます。これは再校のゲラですが、題名は『旅みやげ にしひがし』といいます。集英社から出ます。世界中のいろんなところへ旅したときの、忘れがたい思い出を題材にした詩で、長い詩も短い詩もある。これは、今まで私が出した詩集の中ではまったく特異な詩集だと思います。散文に近いような、旅の思い出を書いてあります。必ず四行四行になるように、きちんとした形をとってあります。来月(十一月)の十五日が発売。もし、ご興味がある方がいれば、覚えておいていただきたい。それじゃ。
以下、参考(新聞記事などから)
※「からんどりえ」目次と構成
一月 氷柱
二月 霙 (版画あり)
三月 白魚
四月 道化 (版画あり)
五月 斬られた首
六月 球根たち (版画あり)
七月 Les Levres
八月 Les Morts (版画あり)
九月 調理場 (版画あり)
十月 いちまいのナイロンで
十一月 樹木 (版画あり)
十二月 Une Nature morte (版画あり)
※日野啓三氏(ひの・けいぞう=作家、読売新聞編集委員)
十四日午後五時、大腸がんのため自宅で死去、七十三歳。東京都出身。葬儀・告別式は十八日午後零時半から東京都新宿区南元町十九、千日谷会堂で。葬儀委員長は詩人の大岡信氏。喪主は妻さん。
東大卒業後、読売新聞社に入社。ソウル、サイゴンに駐在した。七四年「此岸の家」で平林たい子賞、七五年「あの夕陽」で芥川賞を受賞。その後も「夢の島」など都市と自然の対立を超えた世界を描く作品に取り組んだ。他に「抱擁」(泉鏡花文学賞)、「砂丘が動くように」「台風の眼」「光」など。
芥川賞選考委員。九〇年に腎臓がんで手術したが九七年に再発。闘病しながら執筆を続け、今年に入っても短編集「落葉 神の小さな庭で」などを出した。
(二〇〇二・一〇・一四 京都新聞)
※佐野 洋氏
一九二八年東京生まれ。東京大学心理学科に入学、在校時は日野啓三や大岡信らと同人雑誌〈現代文学〉を発刊し創作を載せている。卒業後は読売新聞社に入社。新聞記者の経験を経て、五八年に〈週刊朝日〉と〈宝石〉の共催コンクールに短編「銅婚式」を応募、二席に入選してデビューした。翌五九年には初の長編『一本の鉛』を発表し、以来矢継ぎ早に大量の長短編を書き続けている。六四年には実際に起こった事件をモデルにした長編『華麗なる醜聞』で第十八回日本推理作家協会賞を受賞。七三年には推理作家協会理事長に就任七九年まで三期理事長職をつとめ、協会賞を長編・短編・評論その他の部門別にするなど同会の近代化に尽力した。
長編の巧さにも定評があるが、とりわけ短編の名手として名高く、日本推理作家協会が毎年刊行する年度代表短編アンソロジー(推理小説年鑑)には三十年以上連続して掲載され続けている。また、現在も継続中の連載評論《推理日記》は佐野の経歴を語る上では絶対に外せない存在として評価されており、この連載中に名探偵の存在の是非をめぐって展開された都筑道夫との「名探偵論争」はとりわけ有名である。
九七年には推理文壇への貢献を讃えられ日本ミステリー文学大賞を受賞。現在も旺盛な執筆活動を続けている。
※稲葉三千男氏
東大名誉教授で東京都東久留米市の元市長、稲葉三千男さんが八日、心不全のため入院先の小平市の病院で死去した。七十五歳だった。葬儀は十二日正午、東久留米市小山二の十の一の大円寺。喪主は妻さん。
福岡県出身。東京大文学部社会学科を一九五三年に卒業後、同大学新聞研究所教授・所長などを歴任。九〇年一月の東久留米市長選に共産党や社会党(当時)の推薦を受けて立候補し、初当選を果たした。三期連続当選したが、〇一年十月、食道にしゅようが見つかったため、小平市内の病院に入院。同年十一月中旬、しゅよう摘出手術を受けていた。同年十二月、〇二年一月告示の市長選を前に、市議会議長に辞表を提出した。辞職同意の臨時市議会のあいさつ文で「天命だと納得するほかありません」と胸の内を語り、治療に専念していた。
学者時代はマスコミ理論をマルクス主義から組み立てようとし、日教組でも活動した。著書に「ドレフュス事件とゾラ」(青木書店)、「メディアの死と再生」(平凡社)などがある。
(二〇〇二・九・九 毎日新聞)
※安東次男氏(あんどう・つぐお=詩人、俳人、仏文学者)
四月九日、呼吸不全のため死去、八十二歳。葬儀は十六日午後一時半、東京都新宿区南元町十九の二、千日谷会堂で。喪主は妻、さん。
東大経済学部卒。昭和十六年ごろから加藤楸邨に師事して俳句を試み、終戦時は海軍の主計将校だった。二十一年、金子兜太らと句誌「風」を創刊。二十四年、金子光晴らの第二次「コスモス」に参加。豊かな超現実的イメージによる独自の詩風を確立し、戦後を代表する詩人の一人になった。詩集に「蘭」「死者の書」。翻訳に「エリュアール詩集」など。芭蕉や蕪村など日本古典詩歌に関する著作も多い。元東京外国語大学教授。
(産業経済新聞)
平成十四年十月十八日 十八時〜二十時
於 東京増進会御茶ノ水ビル六階