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月例フォーラム/平成14年9月

※平成14年9月20日に行われた第五回月例会の記録


高井戸−志水楠男を哀しむ


南画廊・志水楠男

 どうもみなさん、しばらくです。このごろ身辺騒がしくて、出てくるまでにすごく用事があって、ほうほうの態で出てきたんですけど、その結果、肝心の時計を忘れました。

 今日は、志水楠男(しみずくすお)くんという、ぼくの親しかった画商の話をいたします。わたしのような仕事をしている人間が、画商の話をするのは変な話かもしれないけれど。

 彼は、わたしよりも何歳か上です。昭和の年号とぴったり同じ年だった。五十三歳のときに死にました。ちょっと異常な死に方をしたものですから、みんな黙ってしまって、驚いて大変だったんです。

 日本の現代美術に、たくさん優秀な絵描きさんとか彫刻家がいますけど、そういう優秀で前衛的な仕事をしている人々にとっては、志水楠男の画廊、南画廊といいますが、その画廊で展覧会ができるかできないかというのが、一種の登竜門だったんですね。南画廊で展覧会をやったということは、つまり勲章を授けてもらったというふうなものだったわけです。話せばたくさんあって、どういう話をしたらいいかと思うくらいなんですが。物語風になりますが、いつごろ彼が生まれて、どういう仕事をして、死んじゃったかというお話をいたします。

 みなさんとは縁が遠いようなお話になるかもしれませんけど、美術関係の仕事に関心を持っているかたもいらっしゃるでしょうし、将来画廊をやろうかなどという人も、中にはいらっしゃるかもしれない。そういう人にとっては参考になるかもしれないからお話しします。


志水楠男という人

 志水楠男の生まれたのは一九二六年です。大正十五年の四月に東京で生まれました。一九三九年、つまり十三歳のときに、自由学園の男子普通科に入学しました。四十三年に男子の高等科に進んだんですが、一年間在学していただけで離れました。学校をやめちゃったんですね。それ以後、学校と名のつくものとは一切無縁になりました。だから、この男は、中学の課程を一応やっただけという人です。そういう意味では、物書きとか、学者とか、そういう種類の人々とはまるで違う経歴ということができます。

 不思議なことに、彼と親しかった友人たちの中には物書きの類がかなりいます。その中の一人はわたしですが、音楽家ではたとえば武満徹ですね、そういった有名になった連中もいます。絵描きでは、だいたい現代の絵画あるいは彫刻、そういうものを作り出してきた中心メンバーたちが彼と親しかったですね。志水は、一九四五年三月に応召しました。つまり、兵隊にさせられちゃったんですね。一九四五年の三月から応召したんですけど、新兵として軍隊でしぼられている間に、八月には日本が敗戦しました。そこで十月に日本に帰ってきました。軍隊で二ヶ月ぐらいは戦後の混乱のさなかにいたというわけになります。

 これが、彼の青春の前期の略歴ですが、注釈をすると、彼は、おじいさんが熊本出身で、法律家です。陸軍の法務局長を務めました。同じ時期に、森鷗外が軍医総監だったんですね。そういう偉い人だったんです。ところが、その息子、つまり志水のお父さんは、横浜で生糸を扱う貿易商社に勤めて、大正リベラリズムの気風を強く持っていた人でした。しかし軍隊とはまったく関係がなかった。商社マンだったけど社交はいっさい嫌いで、幼年時代から身につけたのは、謡(うたい)です。それをうなることが趣味だったんですね。それから彼のお母さんは、ぼくは初対面のとき、なんと姿勢がピーンとしたすばらしい女の人だと思いました。背は小さかったですけど、実にしっかりした顔つきの、口の利き方もほんとにきれいな日本語をしゃべった、そういうお母さんです。つまりわたしの言い方で言うと、立居振舞にデッサンがはっきりしていたということですね。デッサンがはっきりしている女の人というのは、現代でも注目されますけど、そのおばあちゃん(ぼくはおばあちゃんと呼んでいましたけど)は、戦争前からずっと、きちんとした教養のある立居振舞ができた人の一人として、尊敬されていましたね。

 志水楠男というのはおじいちゃん、おばあちゃん、それから、お父さんとお母さん、そういう方々みんながきちんとした人々だったので、彼自身は勉強も嫌いだし、破天荒なことをした男ですけども、全体を通していえば、物事をどうしようああしようこうしようとぐずぐず考えることは一切なくて、ぱっぱっと決めちゃった男でした。そういうタイプの人間でした。

 それは自由学園の高等科をやめたときにはっきりと出ています。学校で教わる勉強にはもう早々に飽きちゃったんですね。けれども、逆に現実に自分の行為すること、自分が動いて何かやってゆく、そういうことを、彼はひとつひとつ慎重に学んでいたということがわかりました。こういう人間はアクが強いんです。しかし、お母さんの教育がよかったからなのか、ほかの人と付き合うときの立居振舞が丁寧で、愛想がいい。だから、みんな誤解するんですね、こりゃあ優しい人だとね。ところが、ちょっとつきあってみるとわかるんですけど、ものすごい頑固者だった。頑固者だけどもあたりが柔らかくて育ちがいいという感じの人だった。

 画廊に皆さんいらっしゃったことありますか。画廊はいっぱいありますけど、日本の今の画廊は、ぼくはもうほとんどこのごろは行かなくなっちゃったからよくわかりません。だからただ今のことは知りませんけども、十年位前までの画廊について言えば、知り合いの画商もたくさんいたし、いろんな画廊にも出入りしましたが、志水楠男というのは特別に光り輝いていました。そういう人間が行動するときに頼りにするのは、自分の生まれ育ったことをきちんと考えて、やってきたことを考えなおしながら、先のほうの実践に生かしていくというタイプだったからですね。彼について、特にわたしが印象的だったのは、農業がよくできたということです。畑を作ったりするのが実に上手だった。これには、自由学園という学校が、そういう優秀な行動家を育てる上で役に立っているんですね。


画商の仕事

 わたしはおよそ彼と性格が違っていて、しかもやっていたことがまったく違いますので、どういうわけでそんな人間が彼と親しくなったかということをこれからお話しいたします。

 そのお話の前にちょっと申し上げれば、彼が一番ふだん苦慮しながらやっていたのは経済、財政ですね。わたしは何年も志水のところに出入りしていて、一年以上、彼を実際に助けて、一週間にいっぺんくらい画廊に行って、いろいろと手伝った。彼が仕事をやりだしたころというのは、一九五〇年代の半ばぐらいからあとでして、ちょうどぼくが就職して読売新聞社の外報部にいたころですね。外報部で主に英語をやりましたけど、ときどきフランス語も必要なときがある。それは、ぼくとか、あと二、三人フランス語をやっていた連中がカバーした。そういう人間として、志水楠男にも頼られていたんですね。頼られて、ある出来事がきっかけで、それからはよく志水の南画廊の仕事を手伝った。そのおかげで、酒を飲むことも含めて面白い世界をよく知ることができた。

 でも、彼はやりくり算段がとても大変だったんですね。画廊が金をもうけるということは、いかに大変かということがよくわかりました。画廊のすることというのは、要するに簡単に言えば、絵を売ることですね。それから絵を買うことです。売ったり買ったりする、ただそれだけです。ただ、画廊の商売というのは、一対一なんです。

 普通に商売といったら、我々が考えるのは、一つの商品を出して、それを何十人何百人の人が見に来て、そのうちの何十人かが「買いたい」と言って、さらにそのうち一人が買うというものですね。そういう考え方と全然違う。画廊というのは、ほんとに投機なんです。もし当たったら大きいです。絵描きが描いた絵というのは、単なる絵です。それはもう、絵描きさんはいっぱいいますから、そういう絵が一枚あって、突然、何千万円に売れるということがある。その金がばんと画家のところへきたらどうなりますか。絵描きはやっぱり変になりますね、頭が。毎日毎日そういう世界にいて、絵描きは一年にいっぺんも売れないですからね。それを仲介して売ってあげているところが画廊なんです。

 画廊の主人というのは、そういう意味では、巨額の金を、場合によっては動かす。だけど動かしたとたんに「あれは要らねえよ」と言われたら、それっきりおしまいなんですね。その絵をほかのだれかに売るなんてことはできません。たとえば、ピカソなら有名ですから例をあげますと、ピカソのある時代のある有名な絵があるとしますね。これは何億円します。そういうものを、ヨーロッパのどこかの画商が持っていて、それを売るということになって、日本のある画商が、「それを買いたい。お客さんが一人いるから」と、その人に買ってもらえるつもりで仲介するということでやります。その間の苦労も大変なんですよ。

 特に志水が画商をやっていたころというのは、経済的にいうと日本はまだまったく不自由な時代で、一ドルが三六〇円という値段で、それ以上の値段を時には払わなきゃならない。それを毎日毎日ずいぶん苦労して計算をやっていたんだと思います。その一方で、性格的にいうと、志水がそういうことはあんまり好きじゃなかったということはありますね。多くの人が志水が死んだあとに、「あの人はほんとうは画商のような商売人じゃなくて、性格的に言うと、芸術家だった」というようなことを言った。ほんとうに芸術家的な性格だった。

 かなり冒険的なこともいっぱいあったんですが、ときどきほんとに疲れると、ぼくにぽつんと、「大岡さん、わたしはほんとうはね、こういう商売はやめて、どこかの島か、遠い所へ行って、百姓をやりたい。百姓をやれば、ぼくは絶対できると思う」と言った。それはほんとうにそうだろうなと思いました。だけど、結局そういう希望も成り立たないまま……。

 例のドルショックとか、一九七〇年の初めのオイルショックで日本経済ががたがたになったころ、彼はほんとうにくたびれ果ててしまっていた。そして最期まで絵に囲まれて。

 ぼくはそのことばを聞いて血が凍るような思いをしましたけど、自分の画廊においてあるたくさんのすばらしい絵――すばらしいというのは、作った人はそう思っていても、見る人が全然つまらないと思えばそれっきりがらくたになっちゃうんですね。そういう意味では絵というものは、すばらしく見えた場合もがらくたになっちゃうということがあるから、難しいのですけども――を見て、ふっと、「大岡さん見てよ。ここに絵はいっぱいあるけどさ、これ全部ね、墓場の立ち木だ。がらくたにすぎない。そういう感じがするよ」と。ぼくは、「ばか言っちゃいけねえよ」と言ったんですが、そのころにほんとうに気が弱くなっていたんですね。

 今の日本経済はオイルショックを経てきているから、緩衝措置をいっぱい作るようにしてきていると思いますけど、緩衝措置ががっちりとできていない時期には、ドーンと来てそれっきりぱたんといくんですね。彼の場合はそれの一人だったと思います。


画商を始める

 そういう人間ができあがってくるについては、志水が復員してきたころからあとのことをちょっとお話しします。一九四五年に復員してきたあと、一九四七年まで二年間、進駐軍のPXに勤めて、そこで写真の仕上げということをやっていた。だから写真がうまかったんです。彼が撮った写真はたくさん使われています、いろんな場所で。

 写真の仕上げをやっているうちに、ある人に紹介されて、骨董の老舗の店であった平山堂に勤めた。そのお店にもう一人の人がいた、志水よりちょっと歳上の山本孝という人。その人が、今でもある、有名な東京画廊をやがて作るんですね。山本さんは平山堂という骨董屋の老舗でみっちり修行して、もうだいたい商売のことはわかったと。だからこれから独立して、自分は商売をやると。骨董屋じゃなくて、現代絵画の画商になるということで始めた。そのときに山本さんが志水楠男に、君もやってみないかと言ったんですね。それがきっかけで志水は画商の道に入ったんです。

 人間というのはほんとうに偶然でいくんですね。そして志水は画商を始めた。はじめは独立して自分は一本立ちでいくにはちょっと無理だからというので、当時大きな画廊があって、そこにまず山本さんと二人でいっしょに入った。数寄屋橋画廊といって、数寄屋橋の近くにあった。そこで修行したんですね。その画廊は、今ではなくなっちゃった。やっぱり栄枯盛衰が激しいですね。そして、東京画廊の主人となった山本さんが数寄屋橋画廊のもう一人の人といっしょに画廊を設立して、そこへ志水も入った。そのときまではまだ数寄屋橋画廊の一員にすぎなかった。

 その画廊をひいきにしてくれていた絵描きさんたちがいて、有名な人でいえば、安井曾太郎さん、鳥海青児(ちょうかいせいじ)さん。この二人とも絵描きとしてはものすごく偉い人ですね。志水はそのために、ブリジストン美術館などへ出入りして、その世界で洋画のことをだんだん勉強した。やがて一九五〇年の初めに、山本と志水と二人で銀座にまず東京画廊というのを作ったんです。そのときは東京画廊の設立者であった。ところが、東京画廊に入ったのはちょうど二十代の半ばから三十代のはじめにかけての時期で、それが志水楠男にとってはものすごくおもしろかったんです。日本経済がぐーっと上がりかけていて、絵の値段も何も全部おもしろいように上がっていった。そこで売っていったから彼は活躍する場がいっぱいあったんですね。今の時代とはちょっと違うんですよ。

 そのころに何が一番大きい仕事だったかと聞いてみると、彼が言うには、大原美術館にピカソの「頭蓋骨」という絵を入れたこと。その絵はちょっとグレーっぽい色が基調の、まあ陰気な絵です。ピカソという人は陽気な絵もときどきありますけど、どちらかというと陰気ですね。あんまり人を楽しませるとは思えないような絵もいっぱいあります。しかしそういうものでもどこかに絵としての新味があるから、すごい天才だということになるんですけど――わたしはあんまり好きじゃないけど。それが大きな仕事。ピカソはめちゃくちゃ高かったから。それからもうひとつは、ルオーですね。ルオーという人も大変に有名ですが、ルオーの「呪われた王」という絵も大原美術館にあります。これも有名な絵ですね。これも、大原美術館に入れた。二十歳代から三十代のはじめくらいの一介の画商が、そういう絵を扱って実際に美術館へ入れて、巨額の金をばっともらうでしょ。そういうことを何度かやると、もうおもしろくてしょうがない。やめられない。それで彼はとうとう画商の世界に完全に深入りしたんですね。


パイオニアとして生きる

 その瞬間に彼は彼らしい決意をした。それは、どうせこういう画商をやるならば、ほかのだれもできないようなことをやりたいと。彼はそのとき古風なことを言いました。「三十にして立つ」とね、孔子様のことばが頭に入っていたんですね。だから彼の生まれ育ちがよくわかります。お父さんお母さんの教えがそういう形で入っているんですね。儒教的な精神が入っていて、「『三十にして立つ』ということわざがあるけどさぁ」と言うんです。「そのときには自分でなんかやらなきゃだめだと思っていた」と。ここには三十歳前後のかたもいらっしゃるけど、そのころの日本の人には、そういうことを言ってほんとにやっちゃうやつもいたんですね。今は社会がおとなしくなったから、そういうことを言っても笑われちゃうみたいなことがありますけど。彼がそう言ったときは社会が激動していた時代ですから、「三十にして立つ」というのは、ぴんとみんなきたんですね。「やっぱりな」と。

 一九五六年、山本孝と別れて、日本橋の高島屋の脇の小さな画廊を借りて、南画廊を作ったんですね。南というのは彼の楠男の楠のクスという字をとったんです。そういうことを言う人間ですから、当然、現在の絵描きの中でだれを最初に扱って、だれから出発しようかということを思いますね。彼は考えて、そして白羽の矢をたてたのが、その当時、日の出の勢いでぐーんと伸びていた銅版の版画家の駒井哲郎(こまいてつお)でした。駒井哲郎は颯爽とした青年画家で、清潔な、そしてだれにも頼らずに自分の道を貫いているという版画家でありました。駒井はぼくもその後親しくなった一人です。駒井哲郎は神経質な人でしたけど、志水は駒井のところへ行って、自分の画廊の第一回展覧会を駒井さんでやりたいけど、と言った。駒井はびっくりしたけども「喜んで」ということで、初めの第一回展覧会は駒井哲郎展から始めた。

 ここのとこではっきりと南画廊の方針は確立されたんですね。つまりパイオニアであろうと。画廊の世界だけじゃなくて画商としてだけではなく、その他いろんなことを含めて、人間として自分はとにかくパイオニアとして生きるんだ、先駆者として生きるんだということがはっきりありました。そこに彼の意欲と使命感があったんですね。もうひとついえば、彼の若々しい虚栄心というものが、そこにはっきりとあった。虚栄心というのは大事です。虚栄心がない人ででかいことをやる人は、あんまりいないと思いますね。虚栄心というのは、ほかの人に向かって自分をよく見せるということになりますけども、それをやるためには、絶対自分が確かでなければならないということがありますから。そういう意味では虚栄心というのは、自分を支えてくれるエネルギーになります。

 とにかく三十歳をすぎたばかりで、パイオニアになろうとしてやるには、そのくらいの虚栄心的なものが必要です。その場合にぼくにとっておもしろいのは、彼は自由学園の高等科さえもさっとやめちゃったぐらいですから、お勉強というのは嫌いなんですよ、ほんとに。だけど頭ではなくて、体全体で勉強するということには意欲的だったということです。行動家の意欲的な生き方、それははっきりとありました。同時に行動的な楽観主義が初めにあって、それが、彼の好きなことばの一つであると思いますけど「為セバ成ル」ですね。それを彼ははっきり信じていたと思いますね。そういう人間だった。しかも育ちはすごくいいわけですね。育ちがよくて「為セバ成ル」と言って、ほかの人には人当たりがよかったから、みんなにどんどん受け入れられた。それで、あっという間に南画廊は有名になっちゃったんですね。

 当時の画廊の世界では、さっき言いました山本孝さんの東京画廊と南画廊という、この二つが前衛画廊の二大巨頭だったんですね。東京画廊でやるか南画廊でやるか、どちらかでやれなければ、最先端の絵描きとしては認められないというくらいの感じがあったんですね。


フォートリエ展

 そういう人間がやることはだいたいわかります。鮮烈にその行動主義が表れたのは、一九五九年、画廊を始めてから四年目ぐらいのときです。画商として、でっかいことをやった。それは、一九五九年の十一月二十一日から十二月五日まで、二週間あまり、南画廊で開いたフォートリエ展です。ジャン・フォートリエ(Fautrier)は、当時有名だったフランス出身の抽象画家です。抽象というものにも、いわゆる暖かい抽象とか冷たい抽象とかありますけど、フォートリエは、どちらかといったら、暖かい抽象でも冷たい抽象でもなくて、そういうものから外れたところで新しい世界を作った。

 フォートリエの展覧会は、日本のほかの美術愛好家たちがまったく夢にも思わなかったことですね。それを志水はいきなりやったんです。それまでに一部の若手の前衛的な画家達は、ヨーロッパの動向に注目していましたので、フォートリエというのはそういう意味では有名だったんですけど、日本の一般愛好家たちにはまったく夢にも思わなかったという人だった。

 この人の描いた絵とかその他の一群の絵を作った人たちのことを、フランスのミッシェル・タピエという批評家が「アンフォルメル」と命名した。つまりきちんとしたフォルムがないという意味です。アンフォルメル運動というのは、要するに形がはっきりしていないわけですから、何でもいいわけです、ある意味で言えば。実際、この運動に参加して一所懸命やった絵描きたちは一人一人みんな違います。違いながらなおかつ熱い抽象とも冷たい抽象とも言われているような二つの抽象形態の真ん中辺で、広い世界を作った。

 たとえば、皆さんのご承知のお名前をもう一人言えば、アメリカのアクション・ペインティングというグループがありましたね。その巨頭で、アクションペインターといわれていた、ジャック・ポロック。この人は、アンフォルメル運動グループの絵画的な世界に隣接しながら、ちょっとまた違うような、しかし重なり合うような世界を展開した。そして、アンフォルメル運動はそうでもなかったけど、アクション・ペインティングの場合には自殺した人もけっこういる。そういう激しい運動でもありました。

 フォートリエという人はフランスで生まれてフランスで育った、かなり孤高を意識的に守っていた人ですね。ぼくも彼が日本にやってきたときに何日間かいっしょにつきあいましたけど、フランス人というのは、どちらかといったらオープンではないですね。なんか心の中に一物あるんだけども、それをはっきり見せないという感じの人が多いんです。フォートリエという人は特にそうでしたね。日本にやってきたけど、要するに、つんとしているんだ。その点は感じがよくなかったけどね。それでもぼくは、二、三日、志水といっしょにつきあって、いろんなところへ案内してあげたりしましたけど。

 フォートリエは、一九五〇年代の抽象画家の中では最も有名な人の一人だった。そして、日本の若手の前衛志向の画家達にとっては、彼が日本に来るなんていったら、ほんとにびっくりするような出来事だったんです。それをやっちゃったんですね、志水は。フォートリエ夫妻を呼んだ。おまけにそのフォートリエの友達であるジャン・ポーランというフランスの批評家で同時に小説も書く人、それからイタリアの大詩人ウンガレッティ、この人はノーベル賞はもらわなかったんですけど、ノーベル賞をもらったイタリアの別の詩人と並べてもウンガレッティのほうがいいよという人が多いくらいの人、その二人が、いっしょに来ちゃったんです。ぼくはあきれましたね。彼らが志水に対して何をしたかというと、何もしてない。ただ日本に来て、二週間あまりのんびり遊んでいった。箱根とか京都とかに行って、温泉に入ったりして、のんびりして、とてもいい機嫌で帰りました。ほんとうにびっくりしました。

 志水のやつは、たった一人でこれをやったんですね。金も何もない男ですよ。あとで聞きました。「あんなに大勢、なんで呼んだの?」と。そうしたら、「いや、ぼくはね、フォートリエ一人だけ呼んだんだよ。あとの三人か四人はくっついて来ちゃったんだ」と言うんです。あきれかえったけど、くっついてきたのをそのまんま全部受け入れた、どうぞ、と。そういう太っ腹なところがあるんですね。逆にいえば計算が全然できない男だった。そういうやつが画商をやっていたんだから、現代の奇跡ですね。最後は大失敗して死んじゃったんですけど。

 フォートリエ展が行われたときは、志水楠男の画廊はまだ小さい画廊で、あるところの二階にあったんです。その二階は、高島屋のすぐ後ろ側だった。そこに、連日人が押しかけて、二階の底が抜けるんじゃないかというので、日本橋署の警察から毎日きついご注意があった。もう、すごかったです。志水も、「いや、なんとかします」と言うんだけど、実際は何にもしない。来た人を、「ここからあとは入らないで下さい」なんいうことは一切せずに、どんどん入れた。だからほんと、ひしめいてたんですね。

 前衛絵画の美術展で、あんなふうに人が集まったことも、前代未聞だった。でも同時に、「はぁー」とみんな見て感激して帰っていく。そのために南画廊の志水というのは一躍有名になっちゃった。まあ、乾坤(けんこん)一滴の大勝負だった。外国から、物議を醸す意味で有名な絵描きさんを呼んで、その人のための展覧会をやろうなんていうことを考える人は、現在の画廊の世界には、一人もいません。それは、明らかです。

 やっぱり面白味があるというのは、危ないから面白いんですね。危ねえことをやっているということは、興味がある。刺激的です。それを、志水ができた。連日、画廊が超満員の人々であふれていたんですけど、計算したら大変な大赤字になっていたはずなんです。けど、けろりとしているんですね。


志水楠男との出会い

 そのころぼくはまだ有楽町にあった以前の読売新聞に勤めていましたから、読売から歩いていっても、日本橋までそんなに遠くはなかった。それに、歩いていく時間は充分あった。なぜならば外報部は、真夜中の仕事なんです。外報部で用事があるということは、ヨーロッパだと七時間か八時間の時差がありますから、ヨーロッパで夕方起きた事件というのは、こちらの午前二、三時なんです。そのころが一番、忙しい。だからぼくはいまだにそのころの習慣が抜けなくて、真夜中に起きているのが平気なんです。だけど朝、午前八時ぐらいに電話かけてきたりする人は、絶対忘れません、この人はダメって。でも相手はそんなこと知りませんからね。それは、その当時の習慣ですが、ぼくはまだ三十代ですからね、今から四十年以上も前のことですが、その習性がいまだに抜けない。

 そういうわけで、昼間は仕事が済んじゃえば多少暇がありますから、てくてく歩いて日本橋まで行って、志水のところへ行って、しばらく無駄話する。現在どんな絵描きが外国でどんなふうに仕事しているかなんてことは、だいたいその無駄話をしている間にわかるんですね。彼のところへよく暇つぶしに行きました。その関係で親しかったんですけど。

 一番最初に親しくなった理由の一つは、フォートリエ展にあります。フォートリエ展をやったときに、誠心誠意やったら、当時では破天荒にりっぱなカタログができた。そのカタログを持ってきました。それが、もう虫食いだらけのカタログですけど、こういうカタログです。

 大変きれいなアートペーパーで、「南画廊、一九五九年の十一月二十一日から十二月五日まで」とある。これが最初のページにあるフォートリエの絵です。

 これは、現在たぶん大原美術館にあると思います。他に、何点かフォートリエの絵がありますが、これは伝説的に有名な絵です。「人質」という題。抽象絵画です。「人質」といっても顔もなにも書いてない。ただ、ちゃちゃっと描いてあるだけ。これが、「人質」。その他の絵も、ちゃちゃっと描いてあるだけなんだけど。こんな絵がねー、とか思うんですけど。このカタログにある絵は全部、そのとき画廊に出たものですね。このデッサンも描きなぐっているだけみたいに見えるんだけど、実に巧みな手際がいい絵ですね、確かに。

 こういう絵が、三十点くらいありましたかね。そしてこれに、さっき申し上げた、いっしょにやって来たジャン・ポーランの「フォートリエの偉大さ」というエッセイと写真があって、それから東野芳明(とうのよしあき)くんというぼくと同世代の美術評論家、彼の「存在はしわくちゃである」というむちゃな題のエッセイがあります。その次にアンドレ・マルローの書いた「オタージュ(人質)」というエッセイがある。それから、富永惣一先生という、その当時の偉い美術評論家の「フォートリエを迎えて」というエッセイがあって、最後にフォートリエ自身の「現実(レアリテ)について」というエッセイがある。

 このうち、フォートリエ自身のエッセイ「レアリテについて」というのと、ジャン・ポーランの「フォートリエの偉大さ」というエッセイ、この二つは、実はわたくしが訳したんです。それからマルローの「人質について」というエッセイ、これはパリのドルーアン画廊というところで伝説的な展覧会があったんですけど、そこで展覧会をフォートリエがやったときに、その展覧会の序文として書かれたのがマルローの「人質について」というエッセイで、これもわたしが訳しました。ですから、ここにある外国人の文章は全部わたしが訳しているんですね。

 志水楠男が、読売新聞の外報部に大岡さんという人がいて、その人がフランス語をやっている、しかも詩人である、翻訳もうまい、というふうに思ったんですね。それで、ぼくのところへある日突然、やってきた。そして、「実はこういうことをやるから助けてください」と。聞いてみたらフォートリエを呼ぶというので、まずはあきれかえちゃった。「それで、どうするの?」と言ったら、ついては、大きな、ちゃんとした、今の日本ではできないようなカタログを作りたい、と。そのためにはいくつか大事な評論を訳して載せたいというんですね。それについて大岡さんにお願いして、訳してもらいたいと言う。わたしはそういうとき、気軽にOKを言っちゃうほうなんですね。特に志水楠男というのは、そのとき初対面だったんですけど、画商だというけど、全然そんな感じがしない。人当たりがほんとにいいんです。実に礼儀正しい、つきあいとかあいさつが、礼儀正しい。それで、好奇心を持って、これはいっしょに仕事をしてみようかと思って、「じゃ、やってみましょう」と、彼の南画廊まで出かけたんですね。

 小さな画廊でしたけど、そこで話をして、こいつはなかなか人物であると思った。翻訳はすぐにできちゃった。あと東野芳明がちょっと書いて、そして出来上がってみたら、その当時としては破天荒。現在でも、画廊で展覧会やるというだけで、こういうふうなものを作る人はあんまりいない、日本人ではね。今は、いっぱいシミがついているけど、これはもちろん年月がしたことです。それがきっかけで、彼とつきあうようになった。


南画廊と画家たち

 それからは、しょっちゅう南画廊へ行って、のんびりと遊んでいたんですね。そういうことをやっているうちに、南画廊自身がどんどんどんどん有名になっていって、東京画廊という、言ってみれば兄貴分の大きい画廊などさえ問題にならないぐらい、輝かしい存在になった。その当時の二十代、三十代の日本の意欲的な絵描きたちは、みんな南画廊を覗いて、なんかちょっと隙さえあれば志水楠男に親しくなろうと思って、来てましたね。見ていてほんとにいじらしいぐらいだった。絵描きは画廊で展覧会をやらなきゃ、ぜんぜん自分の仕事を人に認めてもらえないというふうな。まあそれだけじゃないとは思うけども。

 それで、南画廊にやってくる絵描きさんたちとも親しくなって、結局ぼくは知らないうちに美術批評みたいなものも書くようになった。ある時期はわたしは美術評論家と書かれたんだね。そのたびに腹が立ちましたね。おれは美術評論家というには、見ている範囲が少なすぎる。まったく見ない絵もたくさんありましたからね。なのに、日本のジャーナリズムは、すぐに、きちんと決め付けてくださいますから、ある時期はわたしは美術評論家だったんです。

 ある時期は詩人という名前もあったけど、それプラス評論家、文芸評論家とか、いろいろと言われてきました。まあ、そう言われるのも無理なかったですね。なんでもかんでもやっちゃうから。

 その時期から南画廊の展覧会は広く注目されるし、立派な抽象画家たちの仕事を次々に展示しました。たとえば、もうこの方はみんな亡くなられましたけど、一人が山口長男(やまぐちたけお)。それからオノサト・トシノブ。この人は桐生出身の抽象画家で、人物としていうと、堅苦しいくらいぴーんとした人で、いっしょに話をしていても、おのずとぴんと背筋が伸びちゃうような。絵もそうですね。正方形と四角形と円との組み合わせみたいな絵です。そのお二方が南画廊にとっては一番大事な先輩の皆さん。

 それから若手の連中はたくさんいました。その若手のうちでは、外国の人の名前を挙げますと、一番彼と親しかったのは、南画廊で七回か八回展覧会をやった、アメリカのサム・フランシスですね。この建物の下の階の壁に「大岡の月」という題のサム・フランシスの絵が掛かっています。真ん中に黄色い月が描いてあります。サム・フランシスがわたしにくれた絵なんですけど、彼に「何ていう題だ」と聞いたら、「あ、そうか、題をまだつけてなかったから、まあいいや、じゃあ『大岡の月』にしよう」と言って、それで「大岡の月」に決まっちゃった。あと、ティンゲリーという名前をお聞きになったことがありますよね。それからジャスパー・ジョーンズという有名な人。それから、もう一人、オルデンバーグ。それから、ダーカンジェロ。女性の抽象の彫刻家で大変に神秘的に有名な人はネーヴェルスン。全部、南画廊で展覧会をやりました。

 それらをやるたびに、神経を使って大変だったんですね。壊しちゃ大変ですから。ネーヴェルスンの絵なんていうのはものすごく大きいんですけど、いっぱいいろんなものがくっついているから、壊しちゃったら大変です。みんなやって来て、作品を展示するときも自分でやりましたね。そのくらい真面目な絵描きたちばっかり。それでいて世界的に有名な連中。そういうのを次から次にやってきました。

 それは、南画廊という存在があっという間に有名になって、志水という男がすごく信用されたからです。そのために、こういう人々が展覧会にやって来るんですね。結局、晩年に近い時期ですけど、彼がわたしに言ったのは、「考えてみたらぼくもずいぶんいろんな人の展覧会をやったね。数えてみると全部で合計二百五回やってる」。画廊を始めてから二百五回やった。二百五回ということは、月に一回としても、二百回以上やるのは大変なこと。一月に一回ではきかない。いっとき二回くらいやっていた時期もありますね。そういう華々しい時期もあった。そこに出たゲストを見ると、ほんとに明らかに戦後日本の美術界を動かしてきた。そういうことがはっきりわかります。


志水楠男の死

 そのおしまいにオイルショックがやってきて、ひどく打撃を受けた企業はたくさんありますけど、画廊のようなところは一番弱いんですね。現在の日本もそうです。みんな財布の口が固くなっちゃう。一番お金を使うようなところは、企業です。企業で絵を買う場合には、場合によっては一億円くらいの絵も買っちゃう場合もある。そういうところが全部ぴしっと締めてしまう。ですからあっという間に金が全然動かなくなって、画廊は干上がっちゃったんですね。そういう時期が一九七〇年代にありました。彼はその中の一人の犠牲者として、だめになっちゃったんですね。体ががたがたになって。

 彼が死んだあと、画廊を続けるかどうするかという議論があったんですね。何人か、一番近かった連中が集まって、その話をしたときに、「やめよう」とみんながいっせいに言った。もう、南画廊は志水一人。あいつは、まったくたった一人で燃えつきて、たった一人でやってきたようなところがあるから。続けて、みすみすだめになっていく画廊が南画廊だ、ということになったら、ほんとにみじめだからやめちゃえって、みんなが言ってやめちゃったんですね。ですから一代限りでおしまいなんです。

 わたしは追悼の文章を、たぶん芸術新潮だったと思いますけど、そのときに書いた。「富も築かず、途半ばに死んだ男は、伝説的な人物として残るだろう」と書きましたけど、実際に彼は伝説的な人物になりましたね。短い生涯です。ぼくは友人関係としては二十年くらい、短い友人関係でもありましたが、しかし印象的な男でした。

 彼がどんなに大きな印象を残していたかということは、これは一つの例ですけど、『マージナリア』という作品があります。「マージナリア」とは、周り、真ん中じゃなくて端っこ。そういう意味の画集です(Marginalia《Hommage to Shimizu》)。

 これにみんな作品を寄せてくれました。これ、全員ただでですよ。ぼくと東野芳明と二人が手紙を書いたか電話したかですね。その人々は、サム・フランシスがリトグラフ、ジャン・ティンゲリがリトグラフ、クレス・オルデンバーグがエッチングとアクアペイントとソフトグランドの版画ですね。それからジャスパー・ジョーンズがセリグラフィの作品。それからクリストはなんでもかんでも包んじゃう人、国会議事堂なんか全部包んだ、クリストもよく来たんですね。展覧会を二、三回やりました。そのクリストがリトグラフとコラージュ。こういうのを寄せてくれました。そして、マルジナリア・パブリケーションズというそのときだけの名前を作って、一九八一年に東京でできました。

 中は、最初に、Marginalia to the life and death of a man「一人の男の生と死に対するマージナリア」というので、大岡信の詩がここにあります。左側が日本語で、右側が英訳です。だれが訳してくれたか忘れました。あとは全部、ものすごく立派な作品です。一介の画商に対して、これだけの巨匠たちがみんなただで絵をくれたということは、ちょっと驚きでしたね。これ、全部で十点しか作ってありません。

 志水のことは、ぼくは、ちゃんと話せたかどうかわかりませんけど、いずれにしてもこれからちょっと休憩いたします。


(休憩)


 どうも、例によって例のごとく何を話したか、ほんとにわからないですね。思いつくことをべらべらしゃべっているだけで。

 今から、志水が死んだときにわたしが書いた詩がありますので、読んでもらいます。実は三つくらい書いたと思うんですけど、ほかの二つはどこかへいっちゃってわからない。このひとつは詩集に入れましたので。短い詩です。それからそのとき志水楠男について概略を書いた短い文章があって、それもついでに読んでもらいます。それでは、奈良さん、いつものようにお願いします。

 「高井戸」という題なんですが、高井戸というのは、志水楠男が住んでいたところが杉並区の高井戸だったんです。ただそれだけのことです。

(朗読)

高井戸

――志水楠男を哀しむ


死んだ人が横たはってゐる。

浅黒い顔は昨日の陽やけのなごり。

生まれてこのかた、こんなに

ぐつすり眠つたことはない顔で、

お香につつまれ、のびのびと横たはつてゐる。


Shimizuよ、ひでえもんだね。

浪荒れ狂ふ夜の海では、

舵・櫂・エンジン・綱・帆・帆柱

これらほど頼りにならないものもなかつたとは。

ひでえもんだ。でもいい、もう。おやすみ。


もつともよく戦つた者だけが、もつとも深く

眠る権利を有するのだ。おやすみ。消える友よ。


志水楠男(一九二六・四・二九―一九七九・三・二〇)、五十二歳で歿。洋画商、南画廊主。志水楠男を一言で形容すれば戦後画商界の風雲児。一九四三年自由学園高等科一年で中退、以後学歴とは無縁。一九四五年三月に召集され、八月敗戦。進駐軍のPXで写真の仕上げをやるうち骨董商の見習い、そこから洋画商のよちよち歩きが始まり、現在大原美術館にあるピカソ作「頭蓋骨」、ルオー作「呪われた王」などを扱って、大原総一郎氏の愛顧を受けたことから本格的に画商となる。三十歳の時、「三十にして立つ」との論語の教えを守って独立し、「現在のパイオニア」はだれかと自問して駒井哲郎のもとに行き、画廊の第一回展を開いた。以後五十三歳にまもなくなろうとするところで急死するまで、二十四年間に約二百五十の現代美術展を開き、いわゆる前衛美術の一牙城となる。志水の飛躍の重要なステップになったのは、一九五九年十一〜十二月に開いた「フォートリエ展」だった。私はこの展覧会の豪勢な(当時では)カタログ造りに協力を頼まれ、初めて彼と会った。これが縁となってごく親しい間柄となり、その死に至るまで常に変らぬ友達であった。死後催された志水追悼会では委員長もつとめた。一介の洋画商の死を悼んで一千人の人が集まった。たぶん画商界では前代未聞のことだったと思う。海外からも、サム・フランシスは急行してきてくれ、弔辞をのべた。他にもジャン・ティンゲリー、ジャスパー・ジョンズなどと親交を結び、個展の展覧会を何回かずつ開いた作家たちの数も、内外ともにきわめて多彩だった。なぜ志水楠男という若い画商がこれほどにも愛され、敬意を持たれたかは、身辺にいた私にはわかりかねるところもあるが、少なくとも絵描きの懐ろにまっすぐとびこむことのできる純情さと、無鉄砲と思えるほどの行動力において抜群だったことは確かだった。人を信じたらとことん付き合った。それゆえ、攻撃に強く防御に弱かった。オイルショックのような経済事情にみじめにやられた。短い生涯に栄光と悲惨との両方を経験して、春浅い日の夕刻、死を急いでしまった。私の「高井戸」という詩は、彼の家にかけつけた時の、何とも言い表わしようのない哀しみの心にひたっていた状態で書いた。


(朗読終わり)


 どうもありがとう。この短い文章は、詩集をまとめるときに後ろに注として書いたんです。まとめていえば、こういうものだったんですね。


サム・フランシスの弔辞

 この中にもありますけど、サム・フランシスはカリフォルニアからお葬式のためにわざわざ飛行機で来て、弔辞を読んでくれたんですね。つつましい服を着て、静かにやって来た。

 志水が死んだということを聞いて、お通夜の晩に電話をサム・フランシスがかけてきたときには、もう初めから終わりまでずっと…、思い出すと涙が出てきた……、彼はほんとに泣き続けだったんです。そして彼は、お葬式の場所に、二枚の紙切れを持って来たんです。

 サム・フランシスという絵描きは不思議な絵描きで、夢をよく見るんですね。そしてその夢を記録するのが癖だった。彼は戦争中に飛行機隊の兵士として召集されて、カリフォルニアの砂漠で飛行機が墜落したんですね。そのときにものすごい打撃を受けて、背中の骨がかなりやられて、そのために何年間かはベッドへ縛り付けられていた。それで絵描きになっちゃったという変な人。雲を描くことから始めたんです。絵描きというのは、何をやっていてもできるんですね。抽象画家のサム・フランシスさんは、毎日毎日、空を、雲を見て、それらを抽象画として描き出した。その前にもちろん具象の時代もちょっとありましたけど、その具象の時代はあっという間に乗り越えて、絵を描き出して有名になったのが、実は雲の絵なんです。

 雲の絵といっても、雲そのものを描いてるんじゃない。白い雲をただ描いてる。雲の中へ、雲のしずくの中へ自分自身が溶け込んじゃったみたいな状態で絵を描いてる。その絵がハーバード・リードという有名なイギリスの批評家の目にとまって、リードが激賞したんですね。そこから彼の画家としての生涯が始まったという、これも劇的なんです。そういう男ですが。

 この男は、その墜落したときの背骨がしょっちゅう痛むんですね。そのために夢を絶えず見た。夢を見るたびに、彼は枕元に紙切れを置いて、さっと書いたんですね。そのノートを見せてもらいましたけど。大学ノートみたいな冊子をたくさん持っていて、それにざーっと書いてあるんですね。彼のそういう夢の記録というのは、なまじな詩人なんか問題にならない、とてもじゃないけど。すばらしい詩が多かった。

 ぼくはお葬式のときに葬儀委員長をやらされて、一切取り仕切ったんですが、詩を書いている人間が画商のお葬式の葬儀委員長をやるというのもかなり異様なことだったかもしれないけど、でもみんなぼくが葬儀委員長をやってもちっとも不思議に思わなかったくらいに、二人は親しかったんですね。。絵描きで言えば堂本尚郎(どうもとひさお)とかですね、今井俊満(いまいとしみつ)とか、こういう伝説的な一九五〇年代の画家たちを始めとして、彼と親しかった人はたくさんいます。それから、批評、美術評論家の東野芳明。東野芳明は早くから親しくしていた。東野とわたしは親しい仲の友達の数人だったと思います。サム・フランシスもそういう仲間の一人みたいな感じでいたんですが、二枚の紙の一枚は、「一年前、シミズが死んだ夢を見て、枕元の紙切れに書きつけておいた、サム・フランシスの夢」という短い文章。それからもうひとつは「シミズの死の報らせのあとでサム・フランシスが見た夢」というのがもうひとつ。この二つを、志水のお葬式のときに祭壇の前で読んだ。すーっと読んで、おしまい。一切何にも言わなかった。そういういわくのある詩、詩じゃなくてことばですね。


(朗読)


一年前、シミズが死んだ夢を見て、枕元の紙切れに書きつけておいた、サム・フランシスの夢

シミズが死んだ。ぼくたちは通夜をしていた。彼の妻も含めて大勢の友だちが、さまざまな思い出を話した。最後にぼくが話す番になって、ぼくは話した。シミズがぼくの親友だったこと、ぼくにとって、彼は日本の霊魂(サイキ)への入口だったこと、つまりぼくの教師であり、またより大いなる世界への導師だったことを。もう一人の友人コンフェルド(スイスの有名な画商)が涙をいっぱい目にためてやってきた。ぼくは彼を慰めた。それからぼくらは、みんなそろってピクニックにいき、シミズにあいさつした。ぼくはひとりでマリーナまで歩いていった。ボートがいっぱいむらがっていた。若い男がボートを修繕していたが、立って海の中へ歩み入った。やがて彼は、ポセイドンのように、巨大な海馬にまたがって、海の中から現れた。ぼくは前から探していたぼくのボートを見つけ、降りていってそのボートをサンドペーパーで磨き、舷側をすみずみまで補強した。ぼくはついにほんとのぼくの船を見つけたのだった。


シミズの死の報らせのあとでサム・フランシスが見た夢


ぼくはシミズの住所録を見つけ、この部屋にいる友人たちにそれを見せた。その住所録には美しい花が色とりどりに描かれていた。花を描いたのはシミズだった。花や木が描かれていて、蔓のように伸びてもう一つのノートにびっしりからみついていた。こちらのノートには数字や価格や住所など、ビジネスの世界のことばかり書きこんであった。シミズのビジネスの世界が、こうして美しい花と木にからみつかれていたのだ。それからシミズと友人たちとわたしは砂漠にむけて車を走らせた。シミズが運転していたが、車は少しも進まないので、平地へ出るため後戻りしなければならなかった。そこでぼくはハンドルをにぎり、運転の仕方を彼に教えた。それからぼくらは、美しい、芳香をはなって花粉が舞う広い沙漠を突走っていった。

(大岡信・訳)


(朗読終わり)


 どうもありがとう。今読んでもらったのが、サム・フランシスの夢の話、二つです。ぼくはサム・フランシスというのは大変な詩人だと思ってますけど、こういう夢の記録を、お葬式の日に千日谷会堂の祭壇の前で読んだんですね。わたしは、葬儀委員長としては仕方がないから、それをあらあら訳しました。訳したけど、大勢いらっしゃった方々にはちゃんと話が通じたかどうかわかりません。


稀有な画商として

 志水楠男というのは、こういうふうな詩を書かせる人だったんですね。これそのものがいい詩だと思います。サム・フランシスという人のことは、また別のときに機会があればお話もいたしますけど、これがまたえらく長い話になっちゃう。こういう人に愛されたということは、画廊の主人として、そういうやつがいたというだけでも、稀有なことじゃないかなと思いますね。

 日本の画廊の世界、画商の社会というのもいろいろあるでしょうけど、その中で彼ほどに、ほかの人々から敬愛されて、同時に何か志水楠男から刺激を受けて、いろんなことができるようになったという人がいるという画商はいないんじゃないかと思うんですね。

 この志水の南画廊が終わりを告げるときの直前にやったのは実はサム・フランシスの展覧会。ですから運命的なことです。別に志水が死ぬとかそんなことは考えもしないで、サム・フランシスの展覧会をやった。それからまもなくに彼は死んじゃったんですね。

 志水は、画廊の主人といっても詩を書いてるぼくのような人間とも、そんなかたちでのつきあいがあった。ほかの画商たちも、いろいろとそういう方はいらっしゃいますけども、特別に印象的にいつまでもぼくの中に残っている男というのは、志水楠男だと思います。先ほど、ぼくは彼を思い出したら、不意に泣けてきて、みっともないことになってしまって、申し訳なかったです。

 今日はちょっと変わったお話になりましたが、時間もきたようですから、ここで今日の話はおしまいにします。どうも失礼しました。






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