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二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜 大岡信フォーラム ・om-forum.org |
月例フォーラム/平成14年7月
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※平成14年7月19日に行われた第四回月例会の記録
詩人の死−エリュアールの追憶のために
エリュアールについて
今日、お話しするのはポール・エリュアール(Paul Eluard 1895〜1952)というフランスの詩人のことです。ポール・エリュアールを読んでいる方は、あんまりいらっしゃらないかもしれませんが。
どんな人か知っていただくために、写真が便利なんです。それで、今日持ってきたのは、この写真集です。エリュアールの写真集はたくさんありまして、いろいろ持っているんですけど。これはあとで休憩時間に机の上に置きますから、ぱらぱらと見ていただいてもけっこうです。
彼の書いた手紙とか詩とかの直筆があり、この写真では、エリュアールとピカソがいる。ピカソは、エリュアールの親友なんですが、二人並ぶと背丈が全然違う。ピカソの方が低い。他に、これはだれ、あれはだれ、と説明するのは無駄ですから、あとでゆっくり見ていただければいいと思います。
今日はあまり重くなさそうな本をいろいろと持ってきました。いったいに十九世紀の終わりころに生まれて、二十世紀の前半に大活躍したフランスの詩人たちは、出版物には恵まれてるんですね。フランスで、二十世紀後半の詩人でもっとも人々に愛された人といえば、このエリュアールさんと、ジャック・プレヴェール(Jacques Prevert)さんですね。プレヴェールはエリュアールと違って、『パロール(Paroles 1949)』という有名な詩集だけでも何十万部、あるいはひょっとしたら百万部クラスの部数が出た詩集の著者なんですね。エリュアールと、プレヴェールとは、全然タイプが違いますけど、フランスの人気詩人としては、二人は特別な存在になったと思います。
フランスには、文学の本として、もっともそれが古典的な地位に達しているということになると、選ばれて入る、そういう叢書があります。ガリマール(Gallimard)書店のプレイヤード(Pleiade)版全集。これは一冊じゃなくて、何冊かがつながって一人のものというものがあります。たとえばバルザック(Honoré de Balzac 1799〜1850)などになるとたいへんな量になる。このプレイヤード版という、要するに銘柄のついた札(ふだ)がぴーんと貼られている、そういう本の中にエリュアールさんのも入っています。エリュアールのは、プレイヤード叢書で二冊になっていたと思います。
それ以外にまた、プレイヤードに似たような本ですけど、彼の写真集がある。日本では写真集が出るほどの詩人は一人もいないと思うんですが。まあ、いたとしたら、萩原朔太郎ぐらいのもんですかね。だけど萩原朔太郎にもいい写真集はなかろうと思いますね。ところがエリュアールの場合には、ここに持ってきた一冊は『リーブル・ディダンティテ(Livre d’ldentite)』というんです、履歴書ですね、この手のものが何冊もあって、ある場合には『ポール・エリュアールと絵描きたち』という題の本もある。
エリュアールという人は、写真集に恵まれている人ですが、その中にはここに載っているような集団の写真もいっぱいある人ですね。彼の所属したグループで、一番有名なグループはシュルレアリスト・グループ。シュルレアリスト・グループというのは、一番親分がアンドレ・ブルトン(André Breton)という有名な人で、ブルトンの親友であり、同時にグループの総元締めの一人でもあった、そういう立場の人がポール・エリュアールでした。写真で見ると、エリュアールという人がいかに背が大きいかわかります。あとは、トリスタン・ツァラ(Tristan Tzara)、それからバンジャマン・ペレ(Benjamin Peret)。この四人はシュルレアリスト・グループの中核メンバーですね。
こういう人々の写真が、実にたくさんあるんです。僕はこの、エリュアールの写真集を見るたびに、つくづく「フランスの詩人というのはみんな写真を撮るのが好きだったんだな」と思うんですね。僕は写真を撮るのは嫌い。だけど彼らは、写真を撮り、それがみんな記念写真風になっていて、全員が直筆で署名してあったりる。そういうものがたくさんあって、これはフランス人と日本人の気質の違いなんですね。フランス人は写真などのもの、記念的なものはとにかく大切にしておく。それであとで、きちんとアルバムを作るという風習があるのではないかと思います。
それ以外にも、例えば絵画とか彫刻とかについても、同じようなことがあるんじゃないかなと推測します。それが本屋さんに出て、売れるんですね。写真集を一冊きれいに装丁して出版すると、応分の部数は必ず売れるという性格なんですね。特にエリュアールの詩は、愛読者が彼の写真を一所懸命集めて、自分のところに置いておきたいという性質のものだと思います。これらは私がポール・エリュアールを初めて読んだころには、まったく夢にも思わなかったことでした。
『現代フランス詩人集』
エリュアールのことをお話しする場合、ここでエリュアールの詩を私が訳したものがありますから、一つや二つはご紹介したほうがいいと思います。あとで紹介しますけど、日本語で読むとよくわかんないです。わかんないというのは翻訳者の無力を告白するようなものですけど、日本語で読んだエリュアールの詩で、未だかつて感心した、これはいいなと思ったことは一度もありません。ですから他の人の訳はまったく無視してます。もちろんここでほかの人の訳を持って来て、こういう訳だとか、そういうお話もいたしません。
前回お話ししたユリイカという本屋さんで企てた重要な叢書の一つで、『現代フランス詩人集』という本が二冊あります。第一冊のほうが出たのは一九五六年でした。伊達得夫は六〇年に死にましたから、死の四年ぐらい前に出したんですね。ここには何人かの詩人が載っています。一九五〇年代の日本で、どういうフランスの詩人が人気があったかということを知るために例を挙げておけば、収録詩人は、ジュール・シュペルヴィエル。これは人気がありましたね。それからポール・エリュアール。その次はルイ・アラゴン(Louis Aragon)。それからアンリ・ミショオ(Henri Michaux)。それからロベール・ガンゾ(Robert Gauzst)。この人はもう今は読む人が少なくなっていると思いますけど、とてもいい、おもしろい詩です。ただし純粋に、フランスで生まれたという人ではありません。中南米の人です。中南米の人は多いですね。ジュール・シュペルヴィエルはウルグアイ、ロベール・ガンゾはスペインだと思います。ちょっと怪しいですけど。それから、あとユージェーヌ・ギルヴィック(Eugène Guillevic)。この人はポール・エリュアールよりちょっと若手の人で、だいぶ最近までご健在で活躍していたんですね。こういうのが第一巻の詩人です。
第二巻にやっぱり五、六人選ばれていて。たぶんね、第一巻が出たころには、第二巻に入れる人を最終的にだれにするかというのでまだもめていたんじゃないかと思うんですけど。第一巻がありながら第二巻、続編としてどういうものが出るかという広告が出てません。つまりそういう時代だったんですね。
私はこの中でポール・エリュアールの論を書き、同時に詩を数十ページ訳したものを載せました。皆さんもそれぞれがお好きな国内の詩人、それから外国の詩人というのがおありだと思うんです。我々のころには、国外の詩人というのは、注目して読んだものだったんですね。私の場合にはそれがポール・エリュアールだったんですけども、ほかの人はやはり別の人のものをよく読んだ。例を挙げれば、アンリ・ミショオという詩人。これは人気のある詩人で、青土社から全集が二回ぐらい出たと思います。このアンリ・ミショオさんは、翻訳者としては小海永二(こかいえいじ)さんという人が全面的に引き受けてやっていた。そういうふうに、それぞれがあの人はあの詩人の係だというような感じになって、一生懸命みんなやったもんなんですね。で、私の場合にはそれがポール・エリュアールという人だった。
エリュアールを初めて読んだころ
エリュアールを初めて読んだのは、旧制一高の最終年、つまり第三年のときです。確か丸善に注文していて、半年以上たってから、ご注文の本がつきましたというお知らせがやっとあって、わくわくして日本橋の丸善にまで取りに行きました。それがこれです。
この本は、『ショワ・ド・ ポエーム(Choix Poèmes)』、つまりエリュアールの詩選です。これはNLF、つまりガリマール書店の刊行で、以前に、もう少し薄い版が出たんでしょうね。私が買ったのには作品を多少増補してある、と書いてあります。そういう詩集が手に入った。初めて自分の手に持ってうれしくてしょうがないんですね。
それまでに読んでいたフランス人は、例えばフランシス・ジャム(Francis Jammes)とか、スタイルとしては、ふつうのフランス語の構文をちゃんと守って読んでいけば、感動するところはちゃんと感動するし、いいなぁと思うところはいいなぁと思うような詩集ばっかりでした。エリュアールもそういうつもりで読んだんです。
フランシス・ジャムの前は、ご多分にもれずボードレールですね。ボードレールのその詩集はフランスのある出版社の版で、ボードレールの詩集くらいになると、版によってまったく編集の仕方が違ってくる。それからアルチュール・ランボーですね。ランボーは学校の教科書の中でも使いましたので。それらは一応、旧制一高、歳は、現在の高校生とあまり変わらないんじゃないかと思いますが、そのときに読んだ。
中学は昔、五年制だったんですね。中学五年やって、それから高等学校を三年やって、そのあと、旧制大学ですね。それが三年間ある。それで一応大学の課程までは全部終わったということになるんです。僕は旧制一高に入るのに五年まで行かずに四年のときに一応、受けてみた。そしたら、なんと受かちゃったんですね。受かった理由ははっきりしています。私が前にやっていた数学の問題と似たような問題が一問出たんですね。数学の問題が一問完璧に出来ていれば、絶対受かるんです。つまり旧制高校の文科の生徒というのは、問題は三問出るんですけど、三問のうち一問ができていれば、絶対に受かる。そのくらいに全体のレベル、数学のレベルがうんと低かったんですね。低かったというより難しかった。問題を見て僕の確信したところでは、確かこれは教室でやったようなものの応用問題だなと思って解いた。それが受かった理由ですね。そう信じてます。
そして一高の文科丙類というところへ入れられた。丙類というのは甲乙丙の丙です。丙類というのはフランス語を専門にやるところ。文乙はドイツ語です。文甲は英語。そして第二外国語に、例えばロシア語とか、中国語とか、そういうのが入っている。文乙や文丙については、ドイツ語一本とかフランス語一本とかなってたんですね。私はフランス語一本のところに入って、初めからそのつもりでいたので、それはうれしかったです。入ってみたけれど、ほとんど授業というのがないんですよ。ほんとに、皆さんのお父さんお母さんがたも覚えてらっしゃると思いますけど、飢えでさいなまれた時代ですから、学校も授業ができなくて、休講になっちゃうんですね。
一高に入って、入った部がまたけったいな部でしてね。みなさんきっとお笑いになりますけど。沼津中学の四年生から一高に三人入って、最初の日、ぽやーっといい気持ちになって、「一高前」(今の「駒場東大前」)駅から歩いていると、さっそくにこにこ笑った上級生が何人か並んで待っている。ほんとに、にこにこ顔なんです。なんていいところなんだろう、一高ってすばらしいと思った。しかし彼らは勧誘していたんですね。「君らはまだ入る部屋も決まってないでしょ」と言うから、「もちろん決まってません。これから学校へ行っていろいろ伺うだけですから」と言ったら、「それならば、われわれのすばらしい部に入りなさい」と言う。それで、三人とも署名した。さて、それでよくよく話を聞くと、会の名前がですね、「耕す会」。変だぞって思ったら農耕班だったんです、要するに。せっかく一高に入ってね、これからもう楽に勉強できいいなぁって思ったら、今まで中学時代にさんざんやらされてうんざりしていた農耕班にまた舞い戻っちゃったんですね。僕ら三人入りました。
一緒に入った一人は僕といっしょに中学時代から「鬼の詞(ことば)」という同人雑誌をやっていた重田徳(あつし)という男です。この男はものすごく字もうまかったし、イラストも全部自分で書いちゃった。彼は陸軍幼年学校へちょっと行っていたものですから、幼年学校ではフランス語を勉強するんですね、ですからフランス語をかなりやっていた。で、フランス語の学科へ入ってフランス語をやるんだから、これはもういいなぁって思っていたら、農耕班ですね。彼のうちは農家です。沼津の北側のほうの大きな農家の息子さんです。「ええーっ」なんて言いながら、まあしょうがないってやってました。
もう一人の山田雄一くんというのは、お父さんが弁護士とか、そういう仕事だったんです。今は彼は明治大学の学長をやってます。山田くんは足が少し悪くて、歩行がちょっと不便だったんですね。その男が、農耕班に入れられちゃって、閉口していましてね。何とかしてやめたいって。彼は半年しないうちにやめました。私も半年しないうちにやめちゃった。脱走して、それからあと三年間近くは脱走兵のまま。部屋割りがいろいろな会に対してあるんですけど、そういうものに入らない。雑草ですね。
寺田透先生
そんな状況だったけれど、ただフランス語だけはものすごく一生懸命勉強しましたね。先生方もすばらしい先生方ばっかりだったんで。フランス語を、授業で習うときだけは、全員きちんと出ていましたね。ただし、数学になると一人か二人しか出ない。数学に出たやつは、君、君って指されるから、まことに閉口してその次から授業に出なくなっちゃうんですね。そんなひどい状態でしたけど。
フランス語の先生で言いますと、川口篤(あつし)さんていう、アンドレ・ジイドの名訳を出しましたね、岩波文庫で。それから、もう一人市原豊太さん。この方も岩波文庫でかなり訳してます。それから二年になって、前田陽一さん、文部大臣になった前田多聞(たもん)さんの息子さんです。フランスでの生活が長かったから、僕らとしゃべるときにもちょっとフランス語風のイントネーションでしゃべるんで、気障(きざ)な野郎だ、とみんな思ったけど、すごくできるので、やはり信奉してましたね。そういう方々がほんとうに熱心に教えてくれた。その中に一人だけ、かなりやくざっぽい先生がいた。本人はちっともやくざっぽくないんですけど、要するに授業に遅れてくる。そして頭がしょっちゅうかゆいらしいんですね。それで手で掻く。そうするとなんとなくふけがかかったりするような…。戦争直後のひどい状態でしたから。特にその方は日常生活的に、奥さんと離婚したばっかりで、とてもつらかったんですね。ただしその先生が僕にとっては生涯の先生になった。その人の名前は寺田透といいます。
寺田透といったら文芸評論家としてご存知の方が多いと思います。すばらしい文章、指摘することすべてが実に納得できるような文章を書きました。けども、とにかく文章が重いんですね。重たい重たい石をうーんと押すみたい。ですから、ジャーナリズムの上では、寺田さんの読者というのは、あんまり多くない。
思潮社の小田久郎くんは、寺田さんを尊敬していて、寺田さんの著作集を二期に渡って出しました。小田くんは何も言ってないけど、小田くんにとっては寺田先生の本を出すということは、うちは立派な本屋だという、すごい自信になったと思います。最終巻ぐらいになると、三百部とか、せいぜい五百部ぐらいか、そのくらいの冊数しか売れなかったと思います。でもこの本は文芸評論としては、戦後の最高クラスのものになっていると思います。
その人が僕らが二年生のときから来て、授業で学生を指す。で、学生が訳すんですね。それを聞いてて「ちょっとその、変だね、その訳は」とかなんとか言うんです。学生は、翻訳はちゃんとしかるべき立派な仏語辞典ラルース(Larousse)なんかを見てやってんだから間違いないと、思っているんですね。ところが、寺田透はそんなこと、まったく問題にしない。「君、それは変じゃないの。その日本語を与えちゃおかしいよ」というところから始まってですね、「その辞書は何ていう辞書だ」と言うと、それはものすごく有名な立派な辞書なんです。「それは君の辞書の訳語だけどね、文学の訳語じゃないよ。文学の翻訳というのはそんなもんじゃないよ」と言われるんです。そうすると言われた学生は目を白黒させて、困っちゃうんですね。そういう授業をやってました。
授業を通じて教わったことはそういうことだったですね。とてもうまい訳をするとか、そういうことはほとんどまったく問題にならない。寺田さんは、例えばフローベルの言っていることでも、この場合は彼の言わんとすることと学生のその時の訳が合っているかどうかということを問題にしている。合っていなければ、「それは文学じゃない」と言うんですね。「それじゃ単に辞書を写しているに過ぎない」と。そういうことに、僕は感動した。僕が実際に文章を書くようになったら寺田さんに読んでもらおうと思っていたんです。
国文科へ入学
そういう先生たちにお世話になって、とにかく三年間、学生のうまい訳というのは怪しいというふうに思うような先生がいて、説明されると、なるほどと思ってやっぱりこれは大変なもんだと感心した。だから辞書というものをあんまり信用しなかった。辞書は決定的に大事なものだけども、それだけを信用するやつというのはそれだけのやつだと思われた。そんな生活を三年間やるうちに、結構フランス語も読めるようになったんです。
一高の三年間を経て旧制大学に入りました。そのとき私は当然のように仏文科を受けようと思ったんですね。で、受けた。でも結果を見に行っても私の名前が出てないんですよ。あれっと思って、次に英文科を見たら英文科にもない。で、英文科のほかのロシア語なんかにもなくて。そのとなりに国文学科があって、そこには私の名前がわりと上のほうにあるんです。「ええーっ! 国文科」と思ってね。
国文科との関係については、私のおやじが短歌を作ってまして、先生は窪田空穂(くぼたうつぼ)先生という早稲田大学の名誉教授だった方です。窪田空穂さんにおやじがかわいがられていた。私はその関係で、一高に入ったときから窪田空穂さんに身元保証人というのをお願いに行って、大学のときにも窪田空穂先生、読売新聞へなんとか受かったときも身元保証人は窪田空穂さんでした。そういう関係で国文学とも縁ができたと言えますが、東京大学の国文学科の学生としてはたぶん最低の学生でした。
私は大学にいた間、授業に出た記憶があるのは主に仏文の授業と英文の授業なんです。英文科は、ちょうど一九三〇年代前後の詩人のことを話す平井正穂(まさお)先生という方がいて、授業をやったもんですから、それはもう夢中になって聞いてましたね。オーデンとかスペンダーとかマックニースとか、そういう一九二〇年代から三〇年代にかけてのイギリスの詩人ではみんな輝かしい名前です。その人たちの、まったく出たばっかりのものをやってくれる。それがとってもよくて、聞きに行きました。なぜかといったら、もちろん自分が詩を書く上に勉強になったから。それで行ったんですが。
仏文の授業は、もちろん初めから絶えず行きましたね。ただ仏文の授業については、英文ほど身にしみて聞かなかったような気がするんですね。私はフランス語の本、詩集とか哲学論文集とかを毎日持っていって、教室でも読む習慣があったんです。それで、まあ、いわば子守り歌みたいに聞いているわけです、フランス語の授業は。
エリュアールとの出会い
ポール・エリュアールというのは、丸善に買いに行って、すぐに立ちながら電車の中で読んだ。ところが開けて読むと、何だかつまんない詩なんですよ。ほんとに。いやになっちゃった。
エリュアールは一四年に最初の詩集『ポエーム』というのが出ました。その次が一七年の詩集です。このへんはエリュアールの年齢から言うと、二十五、六歳ごろの詩です。見てみたら、私の知っているボードレールのような重々しいすばらしい詩じゃないんですね。
ちょっと申し上げれば、ボードレールの詩は、翻訳のほうが絶対に原文よりも難しいです。ボードレールのフランス語の詩はとっても易しい。易しいと言っても、わからない単語はときどき出てきますよ。しかし、全体としてはよくわかるんですね。これはすばらしいなって思って読んでいた。特に例えばL'invitation au voyage「旅へのいざない」とかね。そういう、有名な日本でも知られている詩はフランス語で読むと実に美しいんですよ。詩というのはそういうもんだと思っていたんですね。
ところがこのエリュアールの詩というのは、音楽的になんかぴんとこないんですね。どれ読んでも。なぜだろう。結局未だによくわからないんですけども。僕はエリュアールの専門家ではありませんから。でも、ずいぶん読みましたね。この本は、ばらばらになったのを何度も補修してありますけど。この本をとにかく一冊夏休みに読んだ。完全にこの本だけにとりかかって、読んだ。
ずっと読んでいくうちに、突然、ある日、へぇー、いいなぁこの詩は、と思った詩が出てきたんですね。それは、ある詩の最終行。その最終行にいかれたんですね。なぜかはわからない。それからなんだかエリュアールの詩が急に身近になって、わかるようになったんです。それは、一九四四年刊行の”LE LIT LA TABLE”「寝台とテーブル」という詩集の中にあります。
この人の詩は多くの場合、恋愛詩なんですね。恋愛詩でなくても恋愛がからんでいるんです。この詩を読んで、いやーなるほど、と。このころはニュッシュという女の人といっしょだったんですけど、ニュッシュのことがいっぱい出てくる。ニュッシュという名前はエリュアールがたぶんつけたんですね。本名はマリア・ベンツという名前です。ドイツ系だと思います。この写真集の中にたくさんニュッシュの写真も出ています。ほっそりとした人ですね。一見、日本人の女の人と思われてもちっとも不思議でない。ここに顔だけの写真があります。わりと細面で、二重瞼なんですが、顔の印象としては控えめな、あまりでしゃばらない人で、表に出てくる人じゃなくて、むしろ中へ引っ込んでいるような感じです。ニュッシュの顔は、ピカソやマグリットをはじめとして、たくさんの絵描きが描いています。とても清楚な感じの人です。このニュッシュを写真で見て、なるほどこういう人が、あのエリュアールが熱烈に恋愛詩に書いた人だったんだな、って感心しました。
「そして空はお前の唇の上にある」
私がこの本を読んだ場所を言いますと、沼津中学に石内吉見(いしうちよしみ)先生という生物の先生がいて、その先生の家が箱根の本陣だった。本陣というのは、殿様などが箱根に来たら必ずそこへ泊まるとい大庄屋であり、司令官が宿る司令所ですね。そういう大事な一軒の家。すごい立派な造りです。そういう家の御曹司ですよね。石内さんは僕が「鬼の詞」という同人雑誌を一緒にやってた重田徳と、太田裕雄(ひろを)と、山本有幸(ゆうこう)という四人の同級生をかわいがってね。「おまえら夏になると家にいてもしょうがねえだろう。家にいたって、飯もろくに食べられないじゃないか」というから、「そうです」と。「じゃあね、箱根山へ登って、おれの家へ行け」と。
本陣の跡はそのまま、さまざまな本陣の関係の書類がたくさんありましてね。昔の人々は通行手形というのがあって、通行手形を必ず持って、関所へ行ったら差し出す。差し出すと、検(あらた)められて、「よし、行け」とか言われる。この「よし」って言われる場所のすぐ近くが本陣なんです。だからいっぱいそういう書類がある。それから蓑傘とか、くわとか農民が使ってきたさまざまな道具もあって、それを並べてある。それを、見物に来る人にいろいろ説明すればいいという。
それで、われわれは本陣(当時は「考古館」という小美術館になっていた)へ行った。二階に大広間があって、そこでみんな思い思いに勝手な格好して、寝そべって、飯を食わしてもらって、ときどきお客さんがくると下へどたどた降りていって、ちょっと一周するぐらいの間案内して、「じゃ、どうもありがとう」で、お金をもらって、それでまた上へあがって、という生活を一ヵ月から二ヵ月しました。
そのときに私はこの本を持っていって、読んでいたんです。ほかの連中はほかの連中でそれぞれ勝手に読む本を持っていって読んでいたわけです。本陣の、勝手に僕らが名づけた「読書室」にいて、寝そべって読んでいたんですが、読んでいるうちに、あれ、この行はすごくいいなぁって思った。長い詩ですけど、題名は「諸感覚(Les Senses)」。いろんな感覚という題。途中は忘れましたけど、最後の行が、一行だけあいていて、次のことばがあったんですね。
そして空はお前の唇の上にある
というんです。「空はお前の」(Et le ciel est sur) 「ふたつの唇の上にある」(tes lèvre)って書いてある。その瞬間、僕は、どういうわけか、唇があって、それにぴたっとくっついて空がある印象だった。そういうイメージをもった。
それが、もう少しあとになると、例えば、ダリとかマグリットとかそういうフランスのシュルレアリストの絵にそういうイメージと同質のものが出てきます。だけど、そんなことはまったく知らなかった。僕は一高生、大学生のころは新聞さえもとってませんし、ラジオも持ってない。だからまったく世の中の情報は何にも入ってこなかった状態でした。いろんなシュルレアリストの詩を読んでいたから、シュルレアリストの絵にも関心があったけども、まだ画集なんかが出るような時代じゃないです。
それで自分の頭の中に、唇があって、その上にぴたーっと青空がこうそのままくっついているというイメージを受け取ったんですね。その瞬間に「これはすごくわかった」って感じがしたんです。
そのわかったという感じは、ちょっとなんとも説明のしようがないですね。日本語で説明すれば、なんだそれぽっちのことでって言われるから。だから自分がいいと思ったものについては言わないほうがいいですね。自分がいいと思ったものを説明すると、必ず説明された人は、何だその程度かってことになってしまう。ですからそれは言わないほうがいい。やむを得ず今日はそれを言っているんですけど。
これがわかったっと思った瞬間から、前のをいろいろ見ていると、今までわからなかったのがいっぱいありましたけど、読んでいるうちにだんだん身にしみてわかるような感じになってきた。
エリュアールの詩を訳す
前から自分が詩を書いていましたから、外国の詩を読むということは、要するに自分の詩を書く上で、役に立つようにというスケベ根性が必ずあるんですね。皆さんでも、ものをお書きになっている方々はほかの人のものを読むときは、どこかで役に立つかもしれないと思ってやっている方もいると思いますけど。僕の場合は、エリュアールの詩がそうだったんですね。
それから翻訳をやってみようと思って、かなりエリュアールの訳を作りました。大学ノートに書いたんですけども、これが大問題でしてね。エリュアールの訳をほかの人もたくさんやっていらっしゃるらしいけど、僕はほとんど読まないってさきほど言いましたけど、それは読んだらエリュアールの詩に私が持っているイメージが汚されちゃうという気がするから。だからといって自分が訳したものがいいかというとまったくそうはいかない。それが残念ですね。
エリュアールについて言うと、やっぱりフランス語の詩は日本語にならない。ほんとはそんなことを言ってはいけないんだけども。フランス語の詩でも、特にエリュアールの詩は、イメージとしては硬質。それから動詞とか副詞とか形容詞とかをあまり使わない。名詞が多い。しかも名詞と名詞の間に大きな差があって、それを二つ結び付けているところが多いうえに、両者を結びつける時、その間になんにも説明がない。「これはなんとかである」という式の説明がないということになると、じっと見て考えるしかないんですね。だから読むしかない。読んで読んで、「ああ、そうか。この名詞とこの名詞はこういう意味で、ここんところで二つ並んで出てるんだな」と思うんだけど、じゃ、それを訳してみろって言われると、当然、日本語の訳にするときには、名詞と名詞を並べただけじゃ、実にぶっきらぼうなものですから、どうしたらいいかと思うくらいです。
いかに彼の詩が単純なことばで書かれているかということも言わないといけない。単純なことばというのは訳すのが大変難しいんです。翻訳をやっている方はよくおわかりだと思いますけど、翻訳が易しい部分というのは、日本語の辞書を見て、訳がちゃんと一行、それしかないということで出ているときは、翻訳しやすい。だけどね、一つのことばに、十も二十も訳語が並んでいるときは、この中のどれをとるかによって、まるで違ってしまうことがある。それは難しい。しかし、訳語がたくさんあることばというのはだいたい易しいことばなんです。フランス語としては、使われやすい、だからいろいろ使われるんで、どんどん使われてるうちに、意味がどんどん外へ手を伸ばしていってしまうというものが多いんです。
エリュアール論
エリュアールの一番初期の詩を一つだけ読みます。これは僕がしかたなく訳したもので、その詩の出ている詩集は一九二四年に出版されている。二四年ということは、彼は第一次大戦のとき招集されていたんですね。そのころに作った詩です。「義務と不安」という詩集の八行の短い詩です。題名はフィデール(Fidele)。フィデールというのは忠実。「だれだれに忠実な」という、女性形です。その題名も謎めいていますけどね。意味はこう書いてあるんです。
まっすぐな長い道が
血と涙との土地まで延びる
穏かな村にぼくらは住む
ぼくらは無垢だ
(*無垢というのはイノセントです。これが四行。それから、次の四行)
夜は暑く静かである
ぼくらは捧げる、恋人たちに
すべてのうちで較べもののない
あの忠実さ、生き抜く希望を
というだけなんですね。要するに「まっすぐな長い道が/血と涙との土地まで延びる/穏かな村に僕らは住む/僕らは無垢だ」、これはおそらく、戦争というものを見て、それとは離れて、僕らはたった二人で穏やかな村に住んでいるという意味になると思うんですね。そして、「僕らは無垢だ/夜は暑く静かである/僕らは捧げる、恋人たちに/すべてのうちで較べもののない/あの忠実さ、生き抜く希望を」と言うんですが、これはもう、単純な構文でできています。
これなどは初めに読んだころには、ボードレールと比べて、ずいぶん単純な易しい詩だなぁと思っててばかにしてたんですね。今でも別にすばらしい詩だとは思ってないですけども。意味をちゃんととっているのかどうか、僕はわかりませんけども、とにかく「生き抜く希望」ということをエリュアールぐらい、絶えず詩の中で言い続けた人はいないんですね。だから私は、この詩をエリュアール論の最初のところで引用したんです。エリュアール論というのは、実は、私が書いた外国の詩人論では、最初のものです。「そして空はお前の唇の上に」というのを読んだときに、わかったと思ったことを書こうと、論を書いたんです。それがユリイカの『現代フランス詩人集』に載っています。この論を書いたころのことを、少しお話しいたします。
エリュアール論を書いたのは、一九五二年八月です。一九五二年の八月ということは、私は大学の三年生。どんなふうに書き出したかということをお話しします。あるいは、この中でご参考になるような方がいらっしゃるかもしれないから。
これはまあ、言ってみれば僕の処女作です、文章、批評としてはね。それ以前にも一、二本、日本の現代詩について書いたんですけど、すごく勇ましい論ばっかりで、そのためにそれを読んだ人はみんな私のことを、すげええらそうなことを言ってるし、ずばっと断定的にこれはだめと現代の詩人を批評しているから、五〇歳代の人だと思っていたらしいです。例えば、そのころたいへんえらかった、北川冬彦さんとか、そういう方々の書いてるものをとりあげて、これはだめだってやっつけちゃったんです。その「現代詩試論」というので一発で急に有名になったんですけど、要するに物騒なやつで、こいつにあんまり触らないほうがいいって思われた。あとで初めて会った人から「ああ、あなたがあの『現代詩試論』をお書きになった大岡さん」って言われて、こっちがびっくりしちゃったんですけど。
つまり、みなさんに申し上げておきたいのは、強調して、自分の意見を聞かせよう、聞いたほうがいいよということを言うときには、ある種の文章の準備をしておいて、堂々とえらそうにやるんですね。あとは愛嬌もなければいけない。
このエリュアール論というのは、東京大学の学内雑誌『赤門文学』というのに出たんですね。昔から『赤門文学』は何冊か出ているんだけど、その伝統にのっかって、また一号出しちゃったんです。
僕のエリュアール論についてはほとんどの人は敬遠して、なんだ、すげー難しそうなことが書いてある、と思う人が大部分で、それからやっぱりあの野郎はフランス文学なんかやるんだな、ちきしょーと思う人、それからごく少数の熱心にきちんと読んでくれた人がいた。読んで激賞してくれたのは、作家の中村真一郎さん。『文學界』という雑誌に同人雑誌評というのを書いていて、僕のことを取り出して、すごくほめてくれた。それを僕は下宿近くの王子の本屋さんで読んだ。いいこと書いてくれたって思ったけど、買わなかった。買うお金がなかった。
そういうことで、デビューとしては異色のデビューをしたんですが、そのときにあとでお手紙を読みますけども、私が大変尊敬しているえらい方は、これについてきちんと、ここはどうだという批評を書いてくれた。さっきも名前を言いましたが、その方については、今日、はがきを持ってきましたから、あとでお見せします。
それじゃ、ちょっと朗読よろしくお願いします。
(朗読)
エリュアール論
エリュアール、と一行に書いて眺めていると、その周囲の白い余白が自然に動きはじめるように思えてくる。その眼に見えない動きの感じが僕を安心させ、勝手に書きだせばいいと僕に思わせる。ずるい方法だが、僕はすでにエリュアールについて書きはじめているといってもいいのだ。何故なら、エリュアールが僕に示してみせた最も貴重な詩法のひとつは、詩はどのような一行からでもはじめうる、ということだったからであり、たった今まで、エリュアールについて何か心覚えを書きとめておこうと思いながらも、何ひとつまとまったイデーをもたなかった僕が、習慣的にエリュアールと題を書いた途端に、その字の周囲に何ものか動きはじめるのを感じたというのも、恐らくこの詩法が僕にもたらした活動方式の、ひとつの現れにちがいなさそうだからである。
一篇の詩は、詩人がその全能力をかけて記憶の底に探しあてるいくつかの言葉によって形づくられる。然し、詩そのものは些かもそうした詩人の仕事の経過を露見させてはならない。読者が詩からうける感動の中に、詩人に対する様々の顧慮、例えば詩人のテクニックに対する批評的反応がつきまとうようなことを許さない詩、それだけが僕たちにそのような不思議な陶酔を生みだしうる詩人に対する好奇心を抱かせ、そのテクニックに関する批評的反応を起させうるものである。何故ならば、詩における感動は、究極的に言って、紙面にあらわれた言葉の劇からしか生みだされないからである。そうした感動から理解の方向に進む時、人は、理解を感動的にするためには、感動から理解に進まねばならぬことをあらためて痛切に知るであろう。
僕にとって、エリュアールは、最初
そして空はお前の唇の上にある
という一行と共にしか考えることのできない詩人であった。その夏、僕はエリュアールについて考える度に、常にこの句を思いうかべることに慣れてしまった。その結果、今そのひと夏を記憶の中に再構成しようとすると、僕のその時期はこの句と共にしか思い出すことができなくなっているのを知って驚く。つまり、その当時僕がエリュアールを具体化した仕方と、僕が今、僕の過去の一時期を具体化する仕方とは、一行の詩句を軸にして、全く等しいのである。
ぼくはこのような理解の仕方、むしろ夢み方が正しいものであるかどうか、知らぬ。まして、エリュアールほど正確に夢みる詩人は稀れであることを思えば、僕の気紛れな夢み方に基いて僕が言うべきことは何もないといった方が正しいかもしれぬ。然し、このような些細なことに執着しながら僕が筆を進めているのは、ほかでもない、こんな気紛れな夢み方も、僕自身の意見を持つためには絶対に必要な前提だったということを言いたいにすぎないからだ。一行の詩句が或る人間の或る時期を代弁するということは、何といおうと素晴らしいことである。それはその句がその人間の夢を容れるに充分だったということを示すと同時に、その人間の夢によってどのようにも豊かにされうる柔軟性をもっていたことをも示すからだ。すでにそれは、単なる言葉ではない。
所で、この詩句が僕にあたえたエリュアール像は、三〇年代初期の日本の詩人達がうけとり、且つその擁護者たらんとしておのおの才筆を揮うことになったエリュアール像とはかなりかけはなれたものであったようだ。僕にはまだ『みんなの薔薇』(一九三四)の中で彼が自在に展開してみせる影像の豊富な誕生と死滅、評家が指して「無意識記憶の自動的記述」とよぶ実験は無縁であった。たとい僕がそれらに縁を感じたとしても、それはそのような実験の背後にかくれながら、しかも明らかに一つ一つの影像の中に彼の宇宙の突端をのぞかせている不思議な人物についての興味であって、実験の結果ではなかったであろう。何故なら、僕はその頃(そして今でも)日本の詩人達の詩人としての貧しさ(つまり、生きている宇宙をもった詩人の僅少さ)に唯一の問題を見ていたからである。些か唐突に言えば
そして空はお前の唇の上にある
という句によって、僕ははじめて、詩の中に自然を発見したのである。詩の単なる素材、或いは歌うための単なる手段としての自然ではなく、詩人と全的に共鳴することによって彼に途絶えることない歌を生みださせる、そういう自然を発見したのである。そしてこのことは、いうまでもなく、僕が一人の詩人を発見したことを意味した。
新しい自然ではなくて、新しい光をあてられた自然……。奇妙なことだが、日本のモダンな詩人達に新しい詩の先駆者として映ったエリュアールが、僕に、新しい詩などない、新しい光をあてられた詩があるだけだ、と教えてくれたのだ。僕のエリュアール理解の方向は、このときすでに決定的にきめられていた。
ありがとう。
今、奈良さんにはじめのところをずっと読んでいただいた。今読んでいただいたところが、僕のエリュアール論の根本なんですね。根本であり、そして、これを言うとちょっと嘘っぽくなるけども、エリュアール論だけじゃなくて、ほかの詩人論についても、なんらかの意味で関心のある人を見つけたというときに、態度として持っているのは、必ず今読んでもらったのと同じようなことなんですね。そういう意味では単純なんですが、でも大事なことのような気がします。
ある詩人を読んで好きだと思って、自分が好きな理由を伝えるために、なんらかの方法で評論みたいなものを書くということは、だれにでもありうることですけど、そういう場合にどこを出発点にするかということはいつでも問題なんですね。さまざまな評論、作家論、詩人論を書く場合に、どこがポイントで、どこを書くことから始めるか、あるいは書いていってどこが中心になるということがぴしっとわかるというふうになるかならないか。それが、詩人論、あるいは作家論の決定的な問題じゃないかと僕は思っているんです。
僕の考え方は単純すぎるかもしれないんだけど、ある文章が、ぐちゃぐちゃ細かくいっぱい書いてあるのは、我々のまわりには常にそういう問題がたくさんあって、難しいな、どこから書こうかな、どこから取り上げようかなと迷っているからなんですね。それは当然です。そういうことは必ずありますからね。にもかかわらず、必ず、その時代の、とてもいい批評とか評論というものは出てくるものなんですね。その出てくるもんだというときの、出てくる理由の一番大事なところは、「根本的にこれはこうなんだ」「根本的に言うとこの人のここが好きなんだ」「ここのところが言いたいんだ」というところがきちんと初めから終わりまであって、それが絶えず文章の中心、背骨をずっとなしていく場合なんだということのような気がしますね。
世俗的なことですが、なんとか賞みたいなものがいっぱいあって、その賞の選考委員もときどきさせられますけど、私がこれが一番だと言うとき、それの決め手になるのは、その人の言いたいことの根本はここだということがぱっとわかることですね。自分自身のことで言えば、僕が初めて書いた外国の詩人の論、つまりポール・エリュアール論の冒頭のところで、今読んでもらったところ。これが結局とても大事だという気がするんです。
だから、この中でも皮肉を言ってますけど、「この詩句が僕にあたえたエリュアール像は、三〇年代初期の日本の詩人達がうけとり、且つその擁護者たらんとしておのおの才筆を揮うことになったエリュアール像とはかなりかけはなれたものであったようだ」というところが出発点なんです。ほかの人たちが言っていることはいろいろあったけど、そういうものに対する違和感、それをはっきりと私は抱いていたんですね。
たとえば、シュルレアリスムというのは「無意識記憶の自動的記述だ」なんていうことを、辞書の記述にしたがって言うんです。そう言われると、ああ、そんな難しいもんかなって、みんな思っちゃうんですね。嘘です、それは。そんなことを信用する必要はないんです。自分が何に一番感心しているか、そういうところから出発して、それが無意識記憶なら、無意識記憶の中へ入っていく手段を見つければいいんでね。初めからここに見えているのは、無意識記憶の何とかですってなことを言って、それを一生懸命探そうと思ったって、見つかりません。それは明らかですね。
一番問題なのは、エリュアールの詩を読むと、次々にいろんなイメージがばーっと出てくる、と。出てくるけども、これ全体の向こう側に、必ずこの人の詩人としての宇宙があるという感じが、いつでもしっかりある。それをなんとかしてはっきりさせたいということ、そこが肝心の問題なんです。新しい評論を書く人は、ただ単に新しがってものを書くんじゃなくて、この相手の言ってることの一番根本は何だってことを書けばそれが新しい論になるんですね。そういうことを、僕は初めからこころざしていた。
「日本の詩人達の詩人としての貧しさ(つまり、生きている宇宙をもった詩人の僅少さ)」なんてのは、今、自分が七十歳にもなってみると、これはちょっと言いたくないというか、こんなことを言うと、自分の投げた鉄砲の弾がぼーんと返ってきて自分に真先に当たるぞと思いますけど。でもやっぱりこのことは、一番単純で大事なこと、それだけは必ずあるものだということを言いたいのです。
今、読んでいただいたところで一番大事なことは、「新しい自然ではなくて、新しい光をあてられた自然」、そういうものが必要なんです。ところが「奇妙なことだが、日本のモダンな詩人たちは」、これは、エリュアールなどを読んでいたモダニストの日本の詩人たちがたくさんいますね。シュルレアリストの影響を受けた人は大勢いたんですが、その中で名前をあげれば、西脇順三郎さんとか瀧口修造さんとか、そういう方々がやっていた詩の運動が、このシュルレアリスムの運動とつりあっていたわけです。その人々の下にいた若手の連中にはいろんな人がいた。すごくきらきらと輝かしかった。そういう人々のことを私は批判している。つまり自分は、エリュアールの一つの詩によった、「詩の単なる素材、或いは歌うための単なる手段としての自然ではなく、詩人と全的に共鳴することによって彼に途絶えることない歌を生みださせる、そういう自然を発見したのである」ということを、初めから言いたかったわけですね。
当時(つまり一九三〇年代およびその後の)詩人たちにとって、エリュアールという詩人は、新しい詩の最先端にいるというふうにみんな思っていたわけです。それはもう明らかにそういう雰囲気があった。だけども、僕は違うんじゃないかと。つまり新しい詩などない、新しい光をあてられた詩だけがある、そういうことを思っていた。今でも、当時から五十年以上たってますけど、やっぱり同じように考えているんです。人間の考え方というのはそんなに新しくどんどん変わるということもないんじゃないかなと思うんです。今日、そのことを皆さんに申し上げようと思っていました。
「青春を歳月の中で組織することだ」
エリュアールについて、僕の訳はかなりの数ありますが、ここで示すのにどれが適当かというのはなかなか難しい。例えば、彼の晩年に書いた長詩がある。それは二行ずつで書いたり、突然四行ずつになったりする。一千行以上あります。そういう長詩を僕は翻訳しようと思って、「ここ以外の到る所」という題の長詩をずっと訳していたんですが、途中で挫折しました。だからえらそうなことは言えません。やっぱり日本語になるには、原文を見てみると、だいぶ違うということがわかるんです。ただところどころに引用したくなることばがある。ちょっとその一部を読みます。
としをとる それはおのが青春を
歳月の中で組織することだ
(Vieillir c’est organizer
Sa jeunesse au cours de temps)
これはなかなかいい。一種のマキシムだなぁ。
人間はだんだん歳をとっていきますね、自然に。だけど自然にただしたがって年をとるのとは違う歳の取り方があると。それは、自分の青春を歳月の流れの中で組織しなおしてゆくことだと言ってるんですね。これはとってもいいことばだと思う。誰にでも当てはまることですね。
「折々のうた」という僕の朝日新聞のコラムがあります。これはほかの人の歌や詩を引用して、それについて僕が文章を書くのだけど、そこで一度この詩句を出したことがあります。作はエリュアールで訳は大岡としました。たまにはこういうものを出しておいてもこのコラムならいいかなと思ってね。
エリュアールが、宿痾の肺患が悪化して死んだのは一九五二年の十一月十八日。ある意味でいえば、急死です。九五年生まれだから、五十六、七歳で死んだんです。死んだときには、もう共産党はやめてましたけど、彼は長い間党員だったんです。ルイ・アラゴンもアンドレ・ブルトンも一時期そうだったと思います。フランス共産党には輝かしい歴史があって、彼らはレジスタンスの中核メンバーですから、エリュアールなどもレジスタンスの時代そのものですね。そのころ、彼はいろいろ考えた末でしょうけど、共産党に入った。死んだ時も、彼の追悼文はいろんな新聞に出ましたけど、たまたま僕のもっている「レットル・フランセーズ」という、左翼系の文芸新聞にエリュアール追悼の欄が三ページぐらいあって、それにエリュアールの最終的な時代の詩が載っていた。遺作ですね。「碑銘」という題の詩です。その中にこういう一節がある。
曙はあらゆる時代に美しいと
疑うことなく生きた者 ここに眠る……
「曙はあらゆる時代に美しい」という思想は、歳月の中で我が青春を組織するという考え方と共通しているんですね。エリュアールという人は、絶望的な時代を通り過ぎていたにもかかわらず、最終的には常に希望を失わなかったという、珍しい詩人ですね。今、フランスの詩人で、希望を失わないというような感じで詩を書いていられる人というのはあまりいないんじゃないかと思います。私はもう、最近のフランスの新しい詩はあんまり読まないですけども、希望とか絶望とか、人間全体の感受性なり精神なりを傾けて言わねばならない主題について、一つのことばで「生きる希望」と真正面から言えるような、そういう人はあまりいなくなっちゃった。
これは、フランスだけじゃありません。今の日本文学でもそういうふうなことが言える人というのは、ほとんどいなくなっちゃったですね。大江健三郎さんは、ノーベル賞をもらった大作家ですけども、必死になって書こうとしていることは、「この世は生きる希望に値するかどうか」という最終的な大テーマじゃないかと思うんですね。作家とか詩人というものは、最終的にそういう単純なことにずっとこだわってきた人が、いい仕事をするんじゃないかという気がするんです。
エリュアールという人は五十代半ばで死んだ人でありますけれども、死ぬまで「生きる希望」それを書き続けたという気がするんですね。奈良さん、詩の一部分ですけど、これだけ読んでください。これから読んでもらうのは、「齢もなく」という詩で、年齢もなしにというエリュアール的な題です。これも長い詩の一節です。
(朗読)
ぼくは孤りではない
ぼくの千の似姿がぼくの光を豊かにする
同じような千の視線が肉をひとつのものに均らす
あれは鳥だ 少年だ 岩だ 平野だ
ぼくらの中に溶けこんでるのは
金はふいに哄笑する 深淵のそとにおのれを見つけて
水は 火は ただひとつだけの季節のために裸体になる
宇宙の額に もう蝕はない
エリュアールという人の詩はなかなか一発で読んでわかるというような詩ではないようですね。日本語として、ちょっと、抽象的な度合いが強いことばが多いものですから。わかりにくくてまことに申し訳ないとは思いますけど、フランス語と日本語との絶望的な違いをよく教えてくれる詩人なんですね。それは、残念です。だけど一所懸命つきあって読んでいるうちに、とってもよくなる詩人でもあるんですね。
ガラとダリとニッシュ
大事なことをちょっと忘れていました。今まで読んでもらった詩の中で、今のような詩はニュッシュという人に捧げた詩篇なんですけど、エリュアールは最初ガラという人と結婚しました。若いころの詩はガラという人に贈られた詩です。ガラとエリュアールは二十歳そこそこで結婚しちゃったんです。十八、九歳のころから結核でスイスのサナトリウムに入って、療養していた。そこでガラという女の人と知り合いになった。ガラという人はロシア人の系統です。結婚してしばらくいっしょにいて、セシールという名の女の子が一人生まれてます。
やがて一九二〇年代の半ばごろに、ダリが仲間に入ってきた。ダリはスペイン出身のシュルレアリストの絵描きで、スペイン出身の絵描きには、パブロ・ピカソやジョアン・ミロとかたくさんいましたけど、中でも若手のダリは、そうとう風変わりな男で、ファッションも凝っていた。ダリのところへ大勢の人が集まって、夏休みになるとカダケスというダリの故郷にみんなで遊びに行くことになった。ピカソとガラもそこに呼ばれて行った。ピカソもそのころからずいぶんエリュアールと親しかったし、ほかの連中もみんな親しくしていたんですね。
ダリの家へ行ったんですけど、ダリはエリュアールの奥さんのガラに関心をもってて、ガラの注目をひくために、いろいろ奇矯なふるまいをする。例えばファッションです。わざと顔のどこかを変な形に剃ったり、そんなことはまだいいほうで、しまいに、糞尿を利用してガラの気持ちをひこうとする、そういう奇妙なことをやろうと苦心さんたんする。さすがに直前になって全部やめてしまいますが。結局、その狂態を示したダリがガラの気持ちをうばっちゃったんですね。エリュアールはガラを失うわけです。ガラはその後ずっとダリといっしょにいた。変な夫婦ですけどね、ダリはガラを聖母として描いたりしてますけども。
エリュアールはその後、マリア・ベンツという女性に出会って、その人にニュッシュという名をつけた(つけたのは彼自身のような気がします)。小柄でほっそりした点が、日本人女性にそっくりです。その人に恋して、熱烈な恋愛詩をいっぱい作ったんですね。
そういう意味では、我々日本人の詩とか絵を描いている人たちの生活とはずいぶん違うわけです。特に、一九二〇、三〇年代のシュルレアリスム黄金時代の人たちは、どこの国でも似たようなものです。フランスとかマグリットの生れたベルギーとか、ハイチとか中南米ですね。それから、第二次大戦のころにニューヨークへ逃げてきた人たちがいたから、ニューヨークにもシュルレアリスムグループができましたが、いずれにしても最初からずっと中心になっていたのは、パリですね。アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールという人がいたから、あれだけ大きなものになったと思います。
寺田透さんからのはがき
さきほどお話ししたはがきを最後にお見せしましょう。エリュアール論を出して、わたしはたぶん少しは得意になっていたんですよね。そしたら私が一番信頼している厳しい先生に、ちゃんと釘を刺されまして。だけど、実は少しきつく言いすぎたかなって、気にしていたことがあとでわかった。
二枚あります。差出人は寺田透先生。昭和二十七年の九月十三日に横浜磯子の三六三の寺田透から、東京都台東区下谷竹町十二ノ九の加藤さんの家にいる私あてにはがきをくれました。一枚では書ききれずに表書きまで書いてあるんですね。それを読みますと、
エリュアール論拝見しました。流麗な文章の進め方で悪い出来では無いようですが(*こりゃあ嫌みですね。寺田透は流麗な文章の正反対。だけど僕は流麗な文章しか書けなかった。でもこれが処女作ですからね。もうほんとにだめだったんだなぁ。)エリュアールそのものの抵抗が僕には迫ってきませんでした。(*これはきついねぇ。)君は君の詩を磨くやうにこの文章を磨いたのでは無いでせうか。(*そんなことないね、すらすらと書いただけで。)ランボーについての言及は近頃少しづつ反省と解明の敢行を「地獄」に加えつつ(*ランボーの「地獄」ですね)に加へつつある僕の最近の認知とは(これは誰の解釈とも背馳するもののようですが)大分違っています。しかし随所に僕の詩学と同じやうな考へにぶつかり何だか面映ゆいやうでもありました。来週火金のいづれか(いづれも三時半頃)御来校になればお返しします。なるべく火曜にして下さい。さうすれば何度も持ち歩かずにすみますから。渋谷辺りでお茶でも飲みながらもっと精しくおはなししませう。
というのが、先生のおはがきです。僕は寺田さんはそうだろうなぁと思ったと同時に、ちゃんと読んでくださってうれしかった。ちゃんと批判してくださった。批判されたってことはすばらしかったですね。これが昭和二十七年の九月ですね。次はそのころから三ヶ月くらいたってからのはがき。今度は横浜市磯子から、東京都北区王子三ノ四 宮本様方の僕のところへ。宮本とは、僕が卒業論文を書くために借りてた四畳半の部屋。ちっちゃい部屋で、そこでこもっていたころですね。そこへはがきがきた。
この処 森本 佐久間(*森本くんも佐久間くんも、寺田さんのところへ僕といっしょにお伺いしていた仲間なんですね。一級二級上の連中です。)村松、東野(*村松は村松剛、東野は東野芳明)と君の消息を伝へる人が頻繁に参り、そこへお葉書と雑誌でした。(*雑誌というのは東大の『赤門文学』という同人雑誌。これがちょうど出たんですね。それに「エリュアール論」が載ってた。)雑誌はまだ中味を拝見してゐませんが君のエリュアールがのっているので安心しました。僕の不器用な批評が祟って、君の発表の意志がさまたげられたりしてはと多少気にかけてゐたのです。(*この人はそういうことを多少でも気にかけるような人じゃないんです。だから僕はね、やっぱりずいぶん寺田さんにかわいがられたんですね。そのようにこのとき確信しましたね。寺田さんは僕にとっては、お亡くなりになるまで、ずっと日本の最高の批評家だったわけです。寺田透さん以外の人は、小林秀雄とかそういう人は、だいぶ格下にいるわけですね。)「朝日」のほうはどうなりましたか。(*私は朝日新聞をこのころ受験していた。そのことで聞いてくれているんですね。そのあとは傑作なんですよ、いかにも寺田透らしい。)僕の同窓達はそれぞれ何とか面白さうにやってゐるようですが(*同窓というのは、たぶん寺田さんの同級生ぐらいの人が朝日新聞の出版部の幹部だったんですね)森本は(*森本くんは、朝日新聞に入って外報部に入った。)すっかり嫌気がさしたらしく、僕の考へでは新聞という奴は本来の人間的な言葉の敵なので撥ねられても余りがっかりなさらぬやうに祈ってゐます。又おいで下さい。(湯河原の御教示有り難う)(*湯河原の御教示というのは、もう覚えていません。)
こういうはがきを寺田透先生にいただきました。僕はこれは大事だから取っておいたんですけど、こういうのを見ると、昭和二十年、つまり一九五〇年前後の時代の師弟関係というものを示す本質的なところがあるかもしれないですね。そういう意味でこういうものを持って来てご披露するとことは、多少とも御参考になるかもしれないですね。今はこんな師弟関係が持てるなんてことは少なくなっているでしょう。
じゃあこれでおしまいにいたします。どうもありがとうございました。