二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜
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月例フォーラム/平成14年5月

※平成14年5月17日に行われた第二回月例会の記録


詩「会話の柴が燃えつきて」について



伊達得夫と「ユリイカ」

 さて、今日は伊達得夫(一九二〇〜六一)と、「ユリイカ」という雑誌のことをお話します。「ユリイカ」は、伊達得夫が初めに創刊しました。創刊して五年ぐらい出していて、それで彼は死んじゃった、わずか四十歳で。四十歳で死んだ男にしては、やった仕事はすごいもんです。ここに持ってきてある本はごく一部なんですけど、伊達得夫が出しました。お若い皆さんにとっては、伊達得夫なんていう名前、まったく聞いたこともないという人かもしれませんけど、第二次大戦後の日本で、詩の雑誌あるいは詩の本というものが作られ始めたころの、もっとも代表的な人物は伊達得夫でした。それからまた代表的ないくつかのすばらしい雑誌と本を作ったのも伊達得夫でした。そういう意味では、伊達という男は伝説的な人物だと言ってもいい。

 実は私は伊達得夫に、言ってみれば拾われたような人間でしてね。それ以前は、同人雑誌で、仲間といっしょに仕事をしていました。

 そのころ、神田とか本郷とかあるいは渋谷とかの本屋さんに、きらきらとして見える、見たらすぐに「わーすげえ」と思うような雑誌、あこがれて、「こういうのに書きたいな」と思わせる雑誌が出始めたのが、この伊達得夫の「ユリイカ」です。僕はその創刊号からほとんど常にここに書きました。


『ユリイカ抄』

 ここに彼の残した本があります。彼が死んでしまったあと、ぼくらが彼の書いたものを集めて一冊の本にしました。『ユリイカ抄』(一九六二年一月十六日刊)と言います。実に簡素な本で、箱などぺらぺらでへたすればすぐに折れてしまって、使いものにならないですね。装丁も、こういう実に簡素な装丁でした。装丁をやったのは吉岡実という詩人です。吉岡は、わたしたちといっしょの仲間で、雑誌の同人でありましたけども、同時に吉岡実は、筑摩書房の、死んだころには重役になっていましたけど、当時はまだ社員にすぎなかったですね。ただ、装丁などは非常に得意だったんです。しかしこの装丁も、本当に貧しいですね。伊達が死んですぐ作りましたので、お金もなかったんですね。

 伊達得夫の死んだあと、みんな心配したのは、伊達の家族のこと、というのは奥さんとお嬢さん二人が暮らしていくために銭が必要ですよね。その銭がぜんぜんないんですよ。伊達得夫という人は、まったくお金を貯めていなかったから。

 彼は、もちろん生前には自分で本を出したことはありませんから、これ一冊きり。それでこの一冊は有名な本になりましたね。一九六三年の第一回「歴程賞」という賞をもらいました。しばらくしてから、日本エディタースクールというエディターを養成する学校のある人がこの内容を見て、これは絶対すばらしいから、エディタースクールの本として出して、若い人たちに読んでもらおうと思って出したのが、『詩人たち』という題がついた、『詩人たち――ユリイカ抄』。中身はもともとの原版の内容に、プラスいろいろな付録ですね、出版目録とか総目録とかその他ユリイカが出した本の目録も入っています。その一番おしまいに、ぼくはかなり長い解説を書いています。

 この本も今はもう古本屋でどこでも見つかる、というふうな本ではなくなったと思います。ましてもとの本は、今日、ここへ持ってきましたけれども、これはなくなると大変なんです。二百冊しか作らなかった。二百冊作って、お葬式のために来てくれた人などに差し上げようと思ったんですけど、二百じゃちょっと足りなかったですね。ですからこの本が、もし古本屋に出たとしたら、ばかばかしいぐらいの値段がついていると思います。

 要するに、彼について話をするというよりは、一九四五年の日本敗戦以後、十年から十五年ぐらいの、文化的にいろいろな意味で重要な時期、第二次大戦ののち、だいたい二十年間ぐらいまでの、日本の社会およびさまざまな人々の心理状態がものすごい沸騰状態であった、その時期にさまざまな試みがあったということを中心にして、お話をしたいわけです。


伊達得夫という人

 詩のほうでいえば、「ユリイカ」の伊達得夫がいたおかげで、その周辺の、いろいろな人々のおかれていた状況、そういうものもくっきりと浮かび上がるわけです。そういう意味では伊達得夫というのは個人であって同時に一つのシンボルでもあったということになるかと思います。

 ぼくは、伊達についてこの本の中にかなり長い解説を書きました。それを中心にしてお話します。

 伊達得夫は、生まれた年は一九二〇年、大正九年です。一九二〇年ということは、ぼくより十一歳上。ぼくは一九三一年生まれですから。生まれたのは朝鮮の釜山(プサン)でした。朝鮮総督府にお父さんが勤めていたんですね。そこで生まれて、まもなく京城(ソウル)に移った。ソウルで中学時代まで送りました。それからのち、旧制中学、旧制高校に入るわけです。旧制高校は、九州の福岡高等学校というところに入りました。今の九州大学ですね。それから京都大学の経済学部に入学して卒業したんですね。

 京都大学へ行っていたころは、日本とアメリカその他の国々との戦争がいちばん激しくなってきたころです。彼は京都大学新聞の編集部に入っていたんですが、やがて十八年に一応京都大学を卒業した。ジャーナリストになって、出版社を興し、自分で経営していこうと思っていた。

 昭和十八年以降は戦局が非常に激しく傾いていって、日本はやがて敗戦するわけですね。彼ははじめ東京へ行っていたんですけど、また京都へ戻って、京大新聞の編集部へ顔を出したんですね。彼は京大新聞で活躍していたわけですから、そこが懐かしくて戦後すぐにそこへ顔を出した。そしたらそこの経営をしている先輩の先生がちょうどいいといって、乞われて彼は戦後すぐの京都大学新聞の編集部長になったんです。

 彼は生意気なことにペンネームを二つもっていたんですね。一つは「伊達河太郎」。河太郎は河童という意味ですね。水の中にいる河童。それからもう一つは、「雨宮俊夫(あまみやとしお)」、えらくまじめくさった名前で、ぼくは一回か二回だけ、その名前を見たことがあります。もともとこの人はくそまじめなものよりは、少し飄逸(ひょういつ)なもののほうを好む傾きがあったんだと思います。

 伊達河太郎という名前で、京都大学新聞の時代には大活躍したらしいんですね。ところがぼくらはまったく知らなかった。彼が死んだあとで奥さんから伊達の若いころ書いたものなどのスクラップを見せてもらったんです。その中に京都大学新聞に彼が書いた論説がかなりあった。「河太郎」というペンネームでした。河太郎の署名で書いていた論説は、ほとんど毎号でした。当然、大学新聞には何人か筆者がいるわけで、その連中は、自分こそ将来ジャーナリストになろうと思っているような人ばっかりのはずですが、だいたい出ているのは河太郎君でした。ほかの連中よりはちょっと新聞にぴたっと向いてるような文章だったんでしょうね。

 戦後の復刊第一号からずっと彼はかかわったのですけど、約一年間編集長をやって、やっぱり年来の希望の出版事業をやってみたいと思って、東京へ出てくる。やがて独力で「書肆ユリイカ」という名前の本屋を始めました。この、「ユリイカ」という名前にはいわく因縁があるわけですね。「ユリイカ」というのは、ギリシャ語の「ユーレカ」という意味です。

 これは、アルキメデスが、風呂へ入っていて比重の原理を発見して、「見つけたぞ(ユーレカ)」と大喜びして裸のまま町へ飛び出したという有名な話がありますけど、それとどうも関係があるのです。


『二十歳のエチュード』

 伊達得夫が書いた文章を読んでみます。そのほうが、ぼくがしゃべるよりも話がしやすいから。まさに戦後の日本の状態を実によく示しているような話になりますけど。題名は『余は発見せり』というんですね。『余は発見せり』、というのは「ユーレカ」という意味ですね。これは彼の記念的な随筆の一つだと思います。

 昭和二十一年十月二十五日、一高生(一高生というのは旧制一高の生徒という意味ですね。旧制一高というのは第一高等学校)原口統三(原口統三というのは伝説的な人物でした。私は最後の一高生なものですから、この話のことよりも一年半ほどあとに一高生になったのですけど、原口統三という人はそのころでも神話的な人物でしたね)が逗子の海で入水した(水に入って死んだ、自殺したんですね)。そのことをぼくは、三面記事で知ったが、二十一年と言えば、国民は概ね飢餓線上をさすらっていた。従ってこの事件は、米の遅配の記事ほどにも僕の関心を惹かなかった。しかし、数日後、ぼくは読書新聞で、ふたたび同じ記事を見た。それは、日刊新聞と違ってかなりくわしく原口統三という学生について語り、最後に、遺稿が一冊のノートにまとめられているが、それを出版したいという意味の、友人橋本一明(はしもといちめい)の談話が附されていた。ぼくはMという出版社の編集者だったから(Mというのは前田書店です。前田書店というのは、もちろんとうの昔につぶれましたけど。戦後すぐのころはものすごくいっぱい出版社があった。本当に雨後の筍のごとくできたんですね。その一つです)、今度は、その記事を見逃すわけにはいかなかった。一高生、自殺、遺稿、これだけの条件さえあれば、たとえ内容がどうであろうと(ひどいやつですね)、売れなくってさ! というようなものだ(これは実に伊達得夫らしい書き方ですね。「内容がどうであろうと、売れなくってさ!」といって本当に売っちゃったんですね、彼は)。ぼくは誰の紹介もなく、一高の寮をたずねた(一高の寮というのは今の東大駒場寮ですね。ですから、渋谷の近く。井の頭線の駒場東大前、かつては一高前と言ったんですけど、そこにある寮を訪ねた)。

 入り口で一人の学生をつかまえて、橋本さんに会いたい旨を伝えると、やがて廊下の奥からペタペタとスリッパをひきずって痩躯長身の青年が現れた。かれは、ぼくの差出した名刺をちらと見て、「橋本は外出しています。どういう御用でしょう」と言った。来意を聞きとると、ぼくを一室に招じた。椅子がなかったから、ベッドに腰をおろし、ぼくは手巻きのタバコをくわえた(あのころはタバコといったら全部コンサイスの辞書を一枚ずつ破って、タバコの粉を巻いて吸っていたんですね。ぼくもやりましたけど。コンサイスの辞書なんていうのはそのためにあるようなものでしたね)。かれも同じベッドに腰をおろしたが、その服装の汚なさにも似ず、挙動は端正だった。「ぼく中村と言います。原口の遺稿は橋本が保管してますので何とも言えませんが」「で、何処か外の出版社とすでに話がきまったというようなことは……」「いや、まだです。二、三話はあるようですが」ぼくは一高の門を出て、ほこりっぽい残暑の道を帝都電車(帝都電車というのは今の井の頭線。あのころ帝都電車と言ったんですね)の駅にいそぎながら、いま会った中村という学生の印象から、なんとなく、この話はまとまるナと思った(中村稔は現在でも元気で、日本有数の詩人の一人ですね。有名な弁護士事務所の所長さんで、また日本近代文学館のきわめて有能な理事長でもあります。このころは一高生ですね)。原口統三遺稿集『二十歳のエチュード』は、翌年六月、M出版社から初版五千部が発行され、あっという間に売切た(『二十歳のエチュード』は、「にじゅっさいのエチュード」とお読みになるかたもいらっしゃいますけど、これは「はたちのエチュード」。初版五千部というのは今でもすごいですよね。現在でも、五千部出してたちまち売り切れるというのは、人気歌手とかタレントの本とかで、わーっと出るとあっという間に売り切れるというふうな性質のものがあります。でも、『二十歳のエチュード』というのは原口統三が死ぬ前にずっと書いたノート、日記ですね、そういうものをまとめている本です。この本は一高生の間ではもう聖書みたいに読まれてたんですね。ぼくは自殺した人の残した本というんでばーっと読まれたということに、反感を持っていたんです。なんだあんなもの、というふうな感じで、だれでもかれでも買いに行くっておかしいじゃないかと思っていましたから、あとで読めばいいと思って、そのときは買いませんでした。一高の生徒たちは、本当に争うようにして読んでたんですね。そういう本であります)。が、追いかけて再版、というわけにはいかなかった。紙が当時は簡単に手に入らなかったからだ。それでも、その年の秋に再版五千部が出され、それも瞬く間に売切れた。しかし、そのころから出版界にはようやく不況の風が立ち始めた。戦後、一日一社の割合で増えたと言われる出版社は、同じ割合で姿を消して行った(つまり一日一社消えていったわけですね。ほんとにすごかったんです。あっという間にわーっと出て、あっという間にわーっとみんな倒れてしまうんですね。そういう状態の時期でした。現代においては考えられないような厳しい状態でしたけども、それだけに人々はものすごく、空元気かもしれないけど、元気がありましたね)。M出版社もその例外ではなかったから、『二十歳のエチュード』の売行が記録的だったにも拘らず、その印税の支払いはスムースではなかった。けれども、そのことが、版権所有者である橋本一明やその友人たちと、ぼくとの間を深める結果になったのだろうか(彼は絶えず会わなきゃならなかった。つまり自分は出版社側ですね。だけど金は払えない。いつでも「すいません」と謝る。それに対して一高の連中はのんびりしてますから、「いえいえ」と。その結果だんだん仲良くなっていったということですね)。ぼくは印税を断るために、しばしば彼らと対談しなければならなかったし、その負い目で向陵時報という一高校友会の機関誌の印刷をあっせんしたり、最初に一高の寮で会った中村――詩人、中村稔の書いた探偵小説をカストリ雑誌(カストリというのは、そのころはお酒がなかったから、カストリ〈粕取り〉と称される粗悪な酒を密造したんです。それをもじって、乱造されていた粗悪なエロ雑誌のことをカストリ雑誌だと軽蔑した、三合で酔いつぶれる、つまり三号で雑誌はつぶれるというわけです。それがいっぱい出てて、エロ小説も出たんですね。探偵小説を中村稔さんが書いたそうですけど、これはぜんぜんぼくは知らないですね)に売込んでやったり、それらのめんどうを心よく引受けなければならなかった。

 「向陵」というのは、かつて戦前に旧制一高のあった土地が本郷の向(むこう)が丘。そこの向が丘で出ているジャーナルということで「向陵時報」というんですね。ぼくはこの「向陵時報」の最後の編集員だったんです。たった一人で編集員から編集長まで全部やったものです。昭和二十四年、ぼくが編集者最後のころで、旧制一高がつぶれちゃった。まったく制度が変わってつぶされたんですね。東大駒場になりました。


旧制一高の気風

 旧制一高は、全部寮生活です。そこは、完全自治で、自治政府みたいなもんです。寮生がすべて責任もってやるんですね。

 一高のいちばん大事な役職の一つは寮の食糧を調達する仕事です。かれらは幅をきかせていた。彼らが働かないとめし食えなくなっちゃうから。ひどいめしでしたから――まあそんな話をし始めたら大変ですけど――食うものは、固形物であることはめったになかったですね。だいたいおつゆ。ずずずっと。みんな栄養失調寸前だったわけで、私は昭和二十二年に入って二十五年に出たんですけど、二十二年ごろは日本の食糧事情が最低のときで、本当にめしが何にもなかった。寮のまわりには犬が一匹もいなくなったといううわさがあるくらい。

 腹ぺこぺこなんだけども、それだけ頭がかっかしてて、議論は花咲いていましたね。寮生の一人一人はそんなに特別に頭がよかったとは思いません。今、一高時代の同級生が毎年一回は会合を開いておりますけど、見回してみて、あいつはすごかったなぁなんてやつは一人もいませんね。にもかかわらず、一高というところはなぜか非常に難しいと言われていたんですね。

 ぼくはそこに四年でうまく入っちゃった。中学五年までありましたけど、四年で入った。一級飛び級で入ったんです。私は運良くそれで入ってしまったから、三年間旧制高校をやったんですけど、私の歳で、中学五年までいてそれから旧制高校へ入った人は、東大教養学部へ入れられちゃった。一高生で三年までいた連中の中では、ぼくは最後の一人です。特別にすばらしいすぐれた人がいたわけでも何でもない。とにかくみんなどんぐりの背比べで、いまだにずっとそうです。今でも会うと昔のおもかげを持ってますね。

 そういう時代で、とにかく腹が減っていた。だけど、一人も腹が減ったなんて言わなかったですね。そういう意味で頭のほうばっかり発達してて、ドイツ語のクラスの人などは、東大に入って三年間やっている間に、ドイツ語の翻訳書を一冊出したのもいたそうです。今の学生と比べると、どうも勉強の質が違ってたみたいですね。それはただめちゃくちゃにガリ勉するというんじゃない。ガリ勉は軽蔑された。だけどそうではなくて、頭の使い方がうまいという人は、確かにいたんです。

 だいいちほかのことはあまり考えなかったんですね。テレビジョンはもちろんまだありません。それから新聞は一枚もこない。ですから三年間完全に情報拒絶の状態。そのかわり社会のことはよく知っていました。ラジオはありましたから、ラジオを聞いているということはありました。

 それだけじゃなくて、その当時は戦後すぐの時代ですから、社会運動的なことがものすごく多かった。毎日毎日、そういう意味での社会的なふれあいというのはすごく多くて、出歩いている連中は、だいたいどこかの社会運動をやっているんですね。帰って来て、一高の生徒が大勢いるところで演説をわーっとぶつわけですね。それであいつは頭がいいなぁとみんな感心して聞いていた。

 そういう人が頭の程度を示す面ではすごかったことがありますけども、それ以外はみなシーンと静かにしていて、でも頭の中ではいろんなことを考えていて、というふうなことだったような気がします。


寮生活あれこれ

 寮生活について申し上げますと、そのころの一高の寮はひとつの部屋が寝室と自習室と二つに分かれていて、廊下を隔てて両側に部屋があって、両側とも自分たちの所有ですね。そこにだいたいふつうだったら、三人ぐらいがちょうどいいというところに七、八人入ります。ベッドは完全に万年ベッドですね。とにかく一応足のついたベッドがあって、そこにいるんですけど、それがそのまま布団が置きっぱなしの万年ベッドになっていて、そこに机もくっついてます。そこへ本を置いてあって、それを見ていて、眠くなるとそのままふーっと寝るんですね。ものぐさといったらものぐさです。汚らしいわけです、実際に。ぼくらがいたころはそんなに汚いことはなかったけど、その後、ほんとに汚くなったみたいですね。東大駒場寮というのはかなり汚いことで有名な時期があったと思います。

 空襲でがんがんやられてるから、だいぶ建物が焼けてて、建物が少ない。でも、そこへ入ってくる人数は同じなんで、そこへ入ってきた連中は狭くるしいところへ、どんどん入れられちゃって、生活しているわけです。

 だいたい夜中までずっと同じ顔を突き合わせているわけです。それでもまったく飽きもしないで、毎日毎日議論してましたね。議論は本当にしました。すっかり忘れましたけど。しかし議論が好きだということは明らかですね。一高生というのは議論しなければ本当に何にも意味がないみたいな連中が多かったから。

 お風呂も、お風呂場が寮の一角に、銭湯の小型のような部屋のところにあって、そこに入りに行きたい人はだれでも行く。お風呂の沸かし方は、一応、お風呂を担当しているおじちゃんかおばちゃんがいたんだと思いますけど、それだけじゃとても熱さが足りないんですね、戦後ですから。それで、上からニクロム線をがっと水の中へ入れちゃって。裸電気でそのまま。だから危険なんですね。風呂の中でも、静かに入っている人もいるけれども、ときどき中にいる人同士で議論を始めて、その勢いで出てゆかない、そういうようなことでした。


書肆ユリイカ創立

 ぼくが一高に入ったころには原口が死んだあとでしたけど、『二十歳のエチュード』が前田書店から出たあとでしたから、非常に愛読されていた。原口統三のことを一生懸命にやったのは、中村稔とそれから橋本一明ですね。橋本一明という人はやっぱり四十代で死んじゃったんですけどね。この人は仏文で、国学院大学の教授でした。由井正雪みたいにさーっと長髪で、威風堂々と、あたりを払うみたいな感じで、だけど背は大きくなかったですね。すごく立派な感じがした人です。その人と中村稔、この人は橋本一明より一年か二年先輩でした。この人たちが『二十歳のエチュード』の管理人というふうになっていたんですね。

 中村稔の探偵小説――ぼくはもうその題も、彼がこの場合だけ使用したペンネームも、記憶にないが、それが小栗虫太郎の影響をうけていたことと、たいへんエロっぽいものであったことは忘れない。結婚したばかりのぼくの女房は(伊達の奥さんというのは伊達よりもだいぶ若くて、小柄でぽっちゃりとして、とてもかわいいきれいな人です。そしてお嬢さん二人も、美人です。今どうしているかな、お嬢さんにもここのところ会ってないけど、もう四十代の半ばぐらいかな。どうしているか懐かしい感じですね)、その原稿を読んで、「中村さんは結婚もしていないのに、どうしてこんなことまで知ってるんでしょう」と顔をあからめた(伊達の奥さんはほんとにまじめな人だったから、顔を赤らめちゃったんですね)。しかし、その点にこそカストリ雑誌の編集長は惚れこんだのであろう。いくばくかの原稿料を、かれはポケットに納めて、心もち背を丸めながら、夕暮の神保町に消えていった(中村稔は、詩人としては実に端正な詩やソネット形式の詩とか、ずっと書き続けて、一高生のときから今にいたるまでそうですね。そのころカストリ雑誌に探偵小説と称してエロ小説を書いたとは、まったく知らなかったですね。詩を書いている人は誰も知らないと思います)。二十二年の暮、ぼくのつとめ先は、尨大な返本を屑屋に叩き売って倒産した。ぼくは個人で出版をつづけようと考えた。神保町の喫茶店ランボオの片隅で、ぼくはコーヒーを前に置いて、橋本一明と対座していた。ぼくが始める出版の最初の仕事として『二十歳のエチュード』を改版して出さしてほしいと申し入れたのだ。その茶房の隅では、ウェトレスのユリ子さんが、黒い瞳をミスチックに光らせながら、立ったまま、南京豆をかじっていた。新しい年の二月、一高の記念祭の日に、ぼくは駒場をおとずれた。橋本一明に会う用事があったのだ。そのときかれは三年生で、卒業を目前に控えていた。中村稔は一級上だったから、すでに東大生で、その日は角帽をかぶって、やはり橋本の部屋に遊びに来ていた(二月には一高の記念祭があるんですね。一高の記念祭というのは年に一回だけの一高の創立記念のお祭りの日です。ふだんは絶対女の人は入れないんですよ、でもこの日だけは女の人を入れるんですね。一高生というのは何でか知らないけど、女の子にえらく人気があって、その日はものすごく大勢女の人が来る日でしたね)。橋本は由井正雪風の長髪で、寮の部屋にねころんでいた。ぼくが行くと、かれはターナーの画集を大切そうにひらいて見せながら(これがおかしいですね。ターナーの画集を「大切そうに開いてみせながら」というのが。あのころですから、ひどい粗悪な紙で色もなかったと思いますね。だけど)、「この絵を見て泣かないような奴は芸術家ではない」といった(かわいいですね、ほんとに。ぼくは橋本一明を知っていましたが、ほんとにこういうことを言ったと思いますね)。けれども、新しく作る出版屋のことで頭が一杯だったぼくは十九世紀半の風景画家に泣きたくなる気分ではなかった(まじめなことを言ってあとはぐらかすんですね。そういう才能がありましたね。さきほどの、「ウエトレスの百合子さん」はのちの武田泰淳夫人で、『富士日記』の作者です。百合子さんていうのは有名な人でしたね。やくざっぽい感じでばーっと言ったかと思うと、非常に楚々たる風情もあって、魅力的な女性でした。その百合子さんのことを、南京豆をかじってうんぬんと揶揄してるわけですよね)。中村稔も、「ふむ、ふむ」としさいらしく肯くだけで、左程感動した風でもなかった。それより、ぼくの目をひいたのはむき出しのベッドの上にほうり出されてあった一冊の白い表紙の本であった。その本の背にはエドガア・アラン・ポオ『ユリイカ』牧野信一訳という文字が読まれた(牧野信一は、この人も早死にしてしまったんですけども、戦後の同じ時期には愛された人でしたね)。早稲田大学の坂を下りたところに、有名な焼き鳥屋があった。その店のオヤジは胸まで垂れるアゴヒゲを持っていたので、通称ひげのおやじと呼ばれていたが、ぼくは作家稲垣足穂(と仲良くしてたんですね)と、その店で焼酎のコップを前にしていた。そのとき、彼が言ったのだ。ポオの『ユリイカ』を知っているか。ポオは原稿を書いても誰も買ってくれなかったから、場末の酒場で浮浪者を集めて、自分の原稿を読んで聞かせたのだ。誰も聞いてる奴はいなかった。またあの気狂い奴がしゃべってる、と人は思っていた。その原稿が、「ユリイカ」だった。アメリカにも、やっぱり、あんたみたいな編集者がいて、その「ユリイカ」を本にしてやった。しかし、二部、ほんとうに二部しか売れなかった。首をつって死んだ牧野がそれを訳して第一書房から出したが、日本でもやっぱり売れなかったろう。「ユリイカ」の意味知ってるか。「余は発見せり」という意味だ。ギリシャ語だね。アルキメデスが、比重の原理を発見したとき、ほら、風呂の中に入って水がざあとあふれるのを見て、しめた、と言ってとび出したろう。うれしさのあまり、アテネの町をすっぱだかではだしで走りながら、「ユリイカ!」「ユリイカ!」と叫んだというな。ほほほ。かつてモダニズム派の惑星であったこの作家は、鼻めがねを、掛けたりはずしたりしながら、アルコール中毒らしい、もつれた舌で、そう語ってくれたのだが、それがほんの数日前のことだった――。ぼくは何気ないふりして、ベッドの上から『ユリイカ』をとり上げた。仙花紙の本を見なれていた目に、そのずしりと重い感触が、何かを告げた(何かを告げたというのはつまり、彼はそのときひらめいたんですね。ユリイカということばがね)。夕暮れ、記念祭の終った寮庭では、学生が輪になって、「ああ玉杯」を歌いはじめた。ぼくたちも寮庭へ出てその円周をながめていたが、中村がそのとき、つかつかと歌っている学生の側へ寄って、その肩をポンと叩き、「君、玉杯をマント着たまま、歌ってもいいのかい」と言った。言われた学生は黙って肩からマントをはずした(「ああ玉杯」というのは一高の寮歌のひとつですけど、同時に一高の寮歌の代表です。この歌を歌うときにはマントなんかかけてはいけないとみんなは思っているんですね。われわれのころはきびしいことは言いませんでした)。歌が終ると、ぼく一人、かれらに別れて、一高を出た。帰りの電車は、一高見物に来た着飾った若い女性たちで一杯であったが、ぼくはその中にもまれながら、暗い車窓に、あのまっ白い表紙の本をふたたび思いかえしていた。「ユリイカ」という何やら呪文めいたそのタイトルのことを。

 これがユリイカという本屋を始めた、どうもきっかけらしいですね。今までのところでユリイカというのを彼がはじめたいきさつをちょっと話しました。ここで休憩しましょう。

 ** 休憩 **


ユリイカ追悼――「大波小波」欄

 今読みました伊達の随筆、顧みてみると、稲垣足穂とか、こういう方々は現在はほとんど出版社の本の近刊リストには載らないようになっているのではないかと思うのですけども、そういう人が今から、四十年、五十年ぐらい前では、輝かしい名前だったんですね。ずいぶん変わったものだなと思いますけど。

 伊達得夫が死んだあと、いろんな人が書きましたけど、その中の一つをちょっとご紹介しておこうと思います。昭和三十六年、つまり一九六一年の二月二十六日付東京新聞の「大波小波」という欄、今でもありますけど、ここに「なみだ川」という署名で匿名の文章が載っている。「ユリイカ哀悼」という題です。短い文章の中にいいことを書いてあります。こんなふうな文章ですね。

『日本読書新聞』にユリイカ在庫目録という大きな広告がのっている。『今日の詩人叢書』とか『稲垣足穂全集』とか『ロートレアモン全集』とか並んでいるのを見て、感慨を禁じ得なかった。『戦後に出発した大出版社で生き残っているのは、うちと角川さんだけです』というのが、一月になくなったユリイカ社主、伊達得夫の口癖だったが、その出版社もついに店じまいすることになったのか(戦後に出発した大出版社と、テンテンテンと大出版社のところに書いてある。生き残っているのはうちと角川さんだけですと、本当にそういう時代だったんですね。角川書店は本当に生き残っていまや悠々たるものですけど、その角川と並んで、自分のところだけだ、大出版社は、というふうに言った気概はすごい立派ですね。まったくそのとおりだと思いますけど)。伊達がユリイカを大出版社と呼んだのは、もちろん、半分はユーモアである。オフィスといっても、一部屋にいくつもの出版社が同居している状態。社員といっても、彼をふくめて二人か三人。聞いている人間は、だれだってニヤリとする(ユリイカの店というのは、三省堂のすぐ裏手にちょっとした小路がある、そこは有名な小路でした、そこに出版社ががさがさっとかたまっていたんでね。小さな木造二階建の家ですけど、そこの中に、一部屋に出版社が四社ぐらい入っていた。ということはテーブルの真四角の一つがオフィスということですね。それが四つ。その奥にもう一社か二社入ってて、全体では六社か八社かぐらい入ってましたね。全部小さな出版社。そこで営業していた。本屋さんに本が並ぶと、なになに出版社と書いてありますから、ほんとに立派な出版社かと思ってたずねてみると、あっと驚くのはそこの急で狭い階段、十三階段ありましてね、のぼりきってみるとざーっと奥が見える。みんなごそごそたくさんの紙屑を並べてやっている。それが全部独立した出版社。そういうところにあった出版社の一つがユリイカであり、もう一つが昭森社(しょうしんしゃ)。昭森社は、このビル全体の持ち主だったんですね。昭森社の親分、社長さんは愛称バルザックというんですけど、森谷均(もりやきん)さんという人で、このかたももうだいぶ前に亡くなられましたけど、体の大きい、太った人でした。いつでもあはははと笑う人で、その人の笑い声があるからもっていたようなもんですね。みんなケチな出版社なんですよ。そのケチな出版社のまたちょっと下のほうにくっついて、やっとそこへ出入りできるようになって、一角を得ることができた出版社が、今の詩書出版社では一番大きな思潮社です。思潮社の小田久郎(おだきゅうろう)さんがそこに小さなテーブルをかまえて、うれしそうな顔で、やっとここの主になれたという顔していたんですね。そういう時代です。だから伊達得夫が大出版社だというのを聞いている人間はだれだってニヤリとするに決まってるんですね)。しかし、彼の言葉の底に強烈な自信があったこともたしかなのだ。いわゆる大出版社では出せないような良書を、続々と刊行して来た以上、ユリイカがそれらよりも優れた出版社であると、彼は信じていたにちがいないのである。彼はまた雑誌『ユリイカ』を出していた。そしてこの雑誌がどんなに貴重な存在だったかということは、三月号の詩の雑誌が出そろって『ユリイカ』が出ない今となってみると、よく納得がゆくのだ。あの雑誌には、よい意味での革新の機運があふれていた。一人の偉大なジャーナリストが死んだ。一つの重要な出版社が死んだ。そして一つの生気発らつたる雑誌が死んだ。日本文学はこれらの死者たちに対し、謹んで哀悼の意を表さねばなるまい。

 というのが「『ユリイカ』哀悼」という東京新聞のコラムの記事です。わたしの想像では、この「なみだ川」くんはたぶん作家の丸谷才一だと思う。丸谷才一さんが今のように有名な作家になる前、この伊達得夫が死んだころには、小説はもう発表はしてたけど、有名になっていないですね。彼には何人かの文学的仲間がいて、その人々といっしょに「秩序」という雑誌を出していたんですね。先鋭な批評を書いていた人ですけど、ぼくはなぜ、そういう憶測をするかというと、文体なんです。たとえば、「一人の偉大なジャーナリストが死んだ。一つの重要な出版社が死んだ。そして一つの生気発らつたる雑誌が死んだ。」というふうに、たたみ込んでいく書き方ですね。これは、たぶんイギリス文学の教養のある人の文章です。たとえば、夏目漱石の文章がちょっと似ていますね。夏目漱石の文章でもこういうふうにたたみ込んでいくところがあった。イギリスの批評の書き方がちょっとあるんですね。丸谷さんはもちろん英文学の専門家ですから、そんな気がします。


詩集が売れるということ

 まあ、こういうふうな形で、追悼する側は本当に悲しんだんですけど、彼の家族は大変だったと思いますね。そこで、ぼくはこういうことを書いたんですね。

それにつけても、読書新聞にユリイカ在庫目録の広告を出したときの胸ふさがる思いが、今も甦るのを感じる。

 実際、読書新聞の全面を使って、ユリイカ在庫目録というのをばーっと出したんです。それはぼくなどのアイデアだったんですけど、同時にそれによって、とにかくさしあたって今在庫がある本を全部売っちゃおうと、売ってしまって、家族三人が生きていけるようにしようと思ってやったんですが、そのときすごく売れましたね。びっくりした。びっくりしたということは、伊達が生きていたときは何にも買わなかったじゃないか、お前たちは、という気持ちがあるわけですね。おまえたちは何も買ってくれなかったから伊達はほんとに苦労して死んじゃったんだということを言いたかったんですけども。

 実際に伊達が死んでしまって、ユリイカというのはつぶれてしまったのです。と思った瞬間に、読書人の中で、かなりの人が、これは大変だと、ユリイカの本を全部買ったんですね。

 実は伊達が死ぬ一か月ぐらい前に、ぼくの『大岡信詩集』(今日の詩人双書7、一九六〇年一二月二〇日発行)という詩集が出た。これがたぶんユリイカの出版物としては、最後の出版物になった。その出版物を、ぼくの本も含めて、何人かの人が手分けしてわーっと売って歩いた。新聞広告に出すだけじゃなくて、実際に手分けしてどんどん売って歩いたんです。あっという間に売れちゃったんですけど。そのためにぼくの本は詩集として出て、すぐに全部なくなったという、ぼくとしてはいまだかつてなかった出来事が起きたのです。今日はそれを持ってくるのを忘れてしまったんですが。清岡卓行とか吉岡実とか、飯島耕一とか、みな当時のぼくの仲間ですけど、そういう人々の詩集と同じように、総合誌集的な形のものです。最後の出版だったけども、今では古本屋で出る値段で言ったら、目の玉が飛び出るほど高いものになってますね。

 ぼくの第一詩集『記憶と現在』というのもユリイカで出したんですけど、それなどは、今、古本屋で出たら、やっぱりあきれかえって絶対買いたくないというような値段がついてますね。でもぼくは買いたくないとは思わない、絶対買いますね。すぐにぱっと買います。自分で持っている本が、そのころの詩集は一冊とか二冊しかないとか、そういう本ばっかりなものですからね。非常な貴重品になってしまったんです。

 で、いずれにしても、この「なみだ川」署名の短い文章は、簡にして要を得た伊達得夫論だというふうに思われます。戦後に出発した大出版社と、彼がときどきふざけて言っていたことについてですけども、伊達得夫流の自己批評がこもったいばり方ですね。

 そういうことを言いながら、伊達得夫が私に言ったことを、この文章に書いてますけど、あるときですね、こんなことを言ったんです。

 おれ、売れねえ本ばかり出して、みんなに珍しがられているけどね。岩波だって(岩波だってというんですね)岩波だって古本屋からああなったんじゃねえか(実際、岩波書店は最初神保町に古書店を開いて出発したんです。すぐに漱石の『こころ』を出したのですが、これも自費出版でした。大正三年です。それがああなったじゃないかというんですね)。おれの目標は二十年ばかり先なんだよ。そのころになると、ユリイカに書いてた貧乏詩人たち(つまりぼくのような)がみんなえらくなってさ、おれは左ウチワですよ、左ウチワ。ヘッヘッヘ。

 そういうことを言って笑ったんですけど、ほんとに彼が多少まじめにそう言ったかどうかわかりませんけども、アイロニーがこもっている話というんで、忘れがたい不思議ないい男でしたね。

 ぼくは思潮社の小田久郎くんとも親しいのですけど、小田くんなどに言うんですが、詩集がたくさん売れるということはいいような悪いような、でも悪いような気がするよと。詩集というのは、そんなに売れるものではないんじゃないかと、昔から思っていたわけで、わたしが書いているのは、こういうことです。

しかし私は、詩集が、心の素直で率直な、優しさを知る青年たちに、一人でも多く読まれることを希(ねが)いながらも、同時に、千人以上もの人がある詩集を読むというようなことが信じられないという矛盾した気持ちをいつも抱いている。

 と、二十年か三十年前に書いた文章の中に書いてますけど、今もそう思っています。

 伊達得夫は死んだときに、病名は、肝硬変でした。彼といっしょに、たとえば関東地方のどこかへ小旅行をしたりということがありましたけど、そういうときに、本当に元気がいい人だとはどうも言えないようなところがあった。いつでもちょっと斜にかまえたような感じで、背が高くて、なかなかの美男子だったというふうに言うことができると思いますけど。それが酒も飲まずに、しーんとして座っていたりするようなので、なんか変だなぁというふうになったころにはすでにもう、肝硬変の兆候が現れていたんですね。


清岡卓行による「ユリイカ」解説

 清岡卓行さんが文学辞典に、文芸雑誌「ユリイカ」のことを書いています。第一次のところだけを読んで、皆さんにだいたいこんな仕事をした人だということを、お話しておきます。

「ユリイカ」 文芸雑誌。詩と詩論を中心とする。第一次 昭和三一・十月〜三六年・二月。全五三冊。書肆ユリイカ発行。昭和二三年に書肆ユリイカを起こし小規模ながら詩書出版の態勢を整えた伊達得夫は、八年後に詩誌「ユリイカ」を発刊、六四ページまたはそれよりやや厚いだけの雑誌であったが(六四ページというんですから、ほんとに薄いんですね。最初の「ユリイカ」は必ずこの厚さだった。ぼくは前にもちょっと言いましたけど、厚くないからよかったんだ。薄い雑誌ですごい魅力があったんですね。このページ、どこを開いても全部読みでがあったんですね。そういう時代があったんです。今はね、分厚い。今のユリイカはこのくらい厚いですよね、もっと厚いかな。今、一冊手にとって、初めから終わりまで全部読む人というのは滅多にいないんじゃないかなと思いますね。特集ばっかりやってますから。特集ばっかりやるというのもあんまり雑誌としては好ましい企画ではないと思うんですね。雑誌というのはやっぱり雑々として新しいもの、その次の新しいものをどんどんどんどん出してくるのが雑誌で、特集というのは、半年ぐらいの間、準備しますからね、それで立派な厚いものを作る。「ボードレール」とか「ランボー」とか、みんなこんな厚くて、どこのだれが読むのというような感じで、それらがどんどん出てきますね。あれ、みんな大学院の論文などを書くために使っているんですね。そういうのはあんまり健康じゃない。健康な状態というのはやっぱり、六四ページぐらいがいちばんいいんじゃないかな)毎月の発行日を厳守し、戦後詩の三十年代前半における主流に活発な発表の場を提供した。すなわちそのころ比較的新しく登場していた大岡信(最初に大岡信が出てくる。だからつまりどれくらい若かったかということがよく分かりますね。それから)飯島耕一、岩田宏、吉岡実、山本太郎、那珂太郎、中村稔、吉本隆明、小海永二、谷川俊太郎、吉野弘、岸田衿子、入沢康夫、渋沢孝輔、清岡卓行(自分のことを一番最後に書いてあります)などの詩、評論、翻訳が中心となり、いくらかの例外はあるが、詩的な感受性のその時点における白紙還元に(白紙還元、つまりそれまで持っていたすべてのものを捨てちゃって、白紙還元する。それに)近い新生を示し(新しい生き方ですね)、言語そのものにより多く向合う構え方によって、それまでの戦後詩の「荒地」や「列島」などによる現実的な主題の季節を受けついだ(ここにいらっしゃる方々は、いずれも詩やその他のことに興味がおありの方々でしょうけど、その皆さんにとっても「荒地」「列島」というのはちょっと前の時代のものという感じがすると思うんですね。実際、それを前の時代のものにしちゃったのが、ぼくらです。ぼくらがやったことが、結果として「荒地」や「列島」をちょっと前の世代に押し上げたんですね。そういうことがありました)。といっても、「荒地」の鮎川信夫、黒田三郎、田村隆一、「列島」の安東次男、関根弘、木島始、長谷川龍生なども執筆したし、金子光晴、高橋新吉などの大家も力作を寄せた。別なふうにいえば、世の中が経済的な豊かさを見せはじめ、詩的グループによることさらの主張がなく、むしろ個々の存在が目だちはじめたその時期において、「ユリイカ」は若々しい芸術的な勢力を中心とし(若々しい芸術的な勢力というのは、つまりぼくらのことを言っているらしいですね)、それまでの詩の諸傾向をも合流させた一種の静かなるつぼ坩堝であっただろう(これは、ほんとにそのとおりだったと思いますね)。創刊号の「編集後記」で伊達得夫は、「瀕死の自我を支えて今日から明日へ生き得る詩人の数は、そうあるものでは無い。「ユリイカ」はそうした戦後詩運動の、強力な推進の役割を担うつもりである」と書いたが、新しい詩人の追いつめられた近代性を擁護しようとしたその意図は、戦後詩において珍しく和気のあった状況の中で(そのころちょうどそういう空気があったと清岡卓行は言っている。実際にほんとにぼくらは年上のここに書かれているたくさんの人々とも仲良くやってましたからね)、大岡信の言葉を借りるなら「感受性そのものを、手段であると同時に目的とする」ような詩を中心にし、ほぼ果たされたといっていいだろう。この特徴は、三六年一月に伊達得夫が四一歳で(四十歳、満年令ではね)病死し「ユリイカ」が終刊になった前後から、安保以後の新傾向が生じて戦後詩の流れを変化させたことを思いあわせるとき、いっそう明瞭に感じられる。さて「ユリイカ」に掲載のものを若干あげると、詩に吉岡実「死児」、吉本隆明「時のなかの死」、那珂太郎「作品」、飯島耕一「われわれにとってのことば」、田村隆一「天使」、中村稔「四行詩」、岩田宏「ショパン」など。散文に安東次男「アルプスのピアノ」、谷川俊太郎「世界へ!」、金子光晴「自伝」、大岡信「詩人と青春」、橋本一明「ランボーと社会主義」、篠田一士「詩的言語についての三つの断章」、粟津則雄「ポオル・ヴァレリイ」、小海永二訳、ミショー「日本旅行記」、清岡卓行「ボードレールの詩句による映画俳優論」などがある。なお編集には、前半のある時期に平林敏彦が協力し、最後期には杉山正樹が代行した。

というのが第一次「ユリイカ」の解説です。

 伊達はこういう形で仕事をした。今読んだようなことが書かれる雑誌、あるいは出版社の社長というのは伊達以後にはあまりいなかったことは確かですね。たとえば、ぼくと同じ年の思潮社の小田久郎は、のちにどういうふうに書かれるかわかりませんが。思潮社のほうがずっと大きな仕事をしていますから、やはりとてもいいことを書かれると思いますけども、小田くんははっきりと「ユリイカ」の伊達得夫を意識していますね。なんとかしてあの域に達したいと思っていると思います。たぶん伊達が生きていたら、「なーに小田君はもうとっくにおれなんか追い越してるよ」と言うに違いないけども、実際のところやっぱり伊達得夫の生きていたころの伊達得夫の位置と比べると、思潮社の小田くんの位置というのは、その後の詩人たちの変質もありますけども、小田くんにとっては不満なところもあるんじゃないかなと思うんですね。わたしは同じ歳ですからよくわかるような気がします。やっぱり、彼も戦後のことをよく知っていますし、その時代に生まれて育ったから、その時代のずっと輝かしかったことをちょっと気にしてるんじゃないかなと思います。


「会話の柴が燃えつきて」

 それでは、奈良禎子さんに『会話の柴が燃えつきて』という伊達得夫が死んだときに書いたぼくの詩を、読んでいただきます。お願いします。


会話の柴が燃えつきて
     ――伊達得夫に

会話の柴が燃えつきて

ぼくらがひっそり夜の中で黙ったとき

ひとりの男が荘厳な死体となって

眼の前のさわれない河を

くだっていった

さわれないぼくらの親友

さようなら

君は遠ざかるにつれて

細長い猫背をとりもどし

燃えている空の一角を横切ってしまった

もうぼくらとは逢えない湖水を

君はひとりで泳いで渡り

形而上学も恋愛もない

不在によって存在する

あのふしぎな領土へ入ってしまった

君はもう逢わないだろう

つくろうそばから破れてしまう心臓を

素知らぬ顔して文字で覆う少年や

傷ついた眼を神経の森でかくしている

疲れた俳優

旅行中の女の家を訪問するのが大好きな

悩ましい太った詩人

ねそべってるとき最も速く移動する

車のいらないやせた詩人

恋愛沙汰をききたいのに

ほんとは聞くのが辛いような

美しい女たち

君はかれらに逢わないだろう

みんながいちどに涙を流して

君の骨に別れを告げた日

あの日から

きみはもう

思い出の中の人物となり

君が愛した純粋なものの思い出のような

光あふれる酒の中へ

薄い涙が溶けこんで

かすかにそれを苦くし

ぼくらを悪酔いさせるのも

君はもう

知りはしない

 どうもありがとう。

 ぼくが読むよりずっとよかったですね。これについて何か特に言わなきゃならないということもないんですけど。ちょっと説明したほうがいいかなと思うのは、「君は遠ざかるにつれて/細長い猫背をとりもどし」と書いてあるんだけど、ほんとに彼は背が高かった。そして、やせてました。それでちょっと猫背でいつでもニヒルな感じの笑いを浮かべていたんですが、ニヒルな感じなのに、とてもひとなつこい感じだったんですね。詩の内容については時間がないので、次回にまわしたいと思います。今日はお嬢さんの文章をひとつ読んでみたいと思います。


「お父さんの思い出」

 彼のお嬢さん、真理ちゃんと百合ちゃんですけど、百合ちゃんが妹ですね、彼女が書いた文章があって、これが伊達の文章にそっくり。感心しました。「お父さんの思い出」という文章です。これは彼が死んだあとで、歴程というグループの「歴程詩集」に彼女が頼まれて書いた文章、中学三年生だったと思いますけども、その文章をちょっと読んでいただくようにしましょう。

 お父さんの思い出といっても、これといって変わったことは思い出せません。だからお父さんは普通の人間だったのでしょう。でも人間は普通のことがなかなか出来ないものですから、お父さんは普通であるという事で普通ではなかったのだなあ、と思います。

 お父さんがいなくなってから三年目の今、一番印象に残っているのは、マンガや変わった文字などをよく書いてもらったということです。私が病気の時など、一枚書き終わると又もう一枚というように、ひっきりなしにマンガを書いてもらったことを覚えています。

 私達が寝床に入った頃、遠くの方からカタカタとお父さん特有の足音を立てて帰って来ます。そして毎晩一枚ずつ連続マンガ物語を書き加えていき、私達は床の中で続きがどうなるかと、朝になるのを楽しみにして寝ました。そしてパンドラのはこ、ぽんちゃんの冒険などの絵物語が出来ました。私の絵にお父さんが言葉を入れたり、お父さんの絵に私が言葉を入れたりしました。たとえばこんなのがお父さんの言葉です。

 ねずみくんはこどものくせに

 ひげがはえています。

 ぞうさんはおとなのくせにひげがはえていません。

 へんなおはなしです。

 ノートなどの表紙の名前に、影をつけた立体感のあるものとか、文字の端のほうに顔をつけたものなど、いろいろ工夫した楽しい文字をたくさん書いてもらいました。ゴジック体の、手で書いたか印刷したかがちょっと区別がつかないような文字で、名刺を作ってもらったこともありました。中には、私らしき顔のマンガが入っているのもありました。そんな名刺やマンガを書いて欲しいと友達から頼まれた時お父さんに言うと、『それはやめておこう。』と必ず言うのです。いつでも私達が頼む時はあっさり書いてくれるのですが友達のものとなるといやなのでしょう。

 それからディズニーのまんがなどを本物そっくりに書くことが出来ました。私が絵を持っていきこれと同じのを書いてと頼むと、あまり気がすすまないような顔をして、でも書いてくれました。人のまねはきらいでフレッシュなものが好きなのです。

 私達が夏休みになり工作の宿題をやり出す頃になると、お父さんも私達の材料を使っていろいろ楽しいものを作り出します。

 紙ねん土で人形を作り、茶色に塗ってこしまきや首飾りなどを工夫した土人のどろ人形はその中の傑作だと思います。

 クラス会のためにあやつり人形を作ってもらったりかげ絵を切ってもらったりもしました。かげ絵はお父さんの特技で、下書きもしないで左手で短時間で切ってしまいます。

 アップリケは黒猫が得意でした。病院で切ってもらったさるとおんどりと黒猫の小物入れは、いつまでもわたしの大切なものです。学校の宿題の協力者でもありましたが、そんな時は『自分でしなくちゃダメだよ』とひとこと言いながら頼まれてくれました。

 怒ることも物ごとを強制することもしない、やさしいお父さんだったと思っています。小声で静かな言葉づかいで話す調子は、いつでも変わりませんでした。このことはわたしにぜんぜん遺伝していないのが残念です。

 お父さんの名づけた『キャラメルおにぎり』を持って、気まぐれなハイキングやサイクリング、旅行などに行ったことも想い出されます。

 お父さんの高等学校のときの友達が、お父さんがむかし出した手紙をまとめて送って下さいました。それを読んでいくと私が生まれる頃のがあって、名前を朝、秋、茜と考えていると書いてあるのに、わたしの名前は平凡な百合です。どれをみても百合よりはステキだと思います。

 お父さんが今生きていたら、そんなことを言ってみたいと思います。その時お父さんはどんな返事をしてくれるでしょう。わたしはいろいろに考えます。

 どうもありがとう。

 今の文章、実に伊達と似てるな、と思うんですね。うまいですね。中学生ですよ。今の中学生、こんなのはあんまり書けないんじゃないかな、と思います。やっぱり父親の感化っていうのは大変なものだと思いますね。伊達百合さんが今現在どうしているかちょっとわからないけども、あるときまでは、出版社に勤めてました。お姉さんの真理ちゃんと二人ともジャーナリストになっていたんですが、今はおそらくどこかの奥さんでしょうね。

 伊達得夫という人については、まだいろいろ話をすることがあると思うんですけども、伊達の話ばっかりしていてもしょうがないから、今日はここまでということにします。


 皆さんに何かご質問があればうかがって、そして終わりにしたいと思います。どうでしょうか。

質問:先生の詩はたくさんの作曲家のかたが音楽にされていると思うんですが、ご自分の作品がほかの方によって新しい音楽の作品として外に出されていくことについて、詩人という立場から、どのようにお考えですか。

大岡:ぼくは、自分の作品が音楽になるということは、どんな詩を書いてもはじめ予想もしてないですね。ですから、どんな音楽かということを考えたこともないんですけど、できあがったものをCDあるいはテープで作曲家が送ってくれることがあります。

 わたしの作品を、いくつか作曲している人のほうが、初めて作曲するという人よりは、ぼくの耳が慣れがあるからかも知らないけど、その人のはだいたいこうなるだろうなと思って聞いているとそのような感じになっていくことがあって、やっぱりちょっとうれしいですね。

 音楽というのは、特に詩とくっついている場合、声の入っている音楽というのは、自分のことばで発音しているときの息遣いがあるわけですね。全部ばーっと棒読みしてしまう場合と、そうじゃなくてちゃんとリズムをつけて読む場合と、それから読む人に思い入れがあって、こういうふうに読みたいというふうな感じで、うんと力を入れて読んでくれることもあります。いろいろあるけれども、ぼくはあんまりその人の主観が強烈にあるというのよりは、リズムはちゃんと保ちながらも、なめらかにすーっと人に伝わるようにやってくれるのがうれしいですね。

 たとえばぼくの歌をたくさん作っている人で言うと、木下牧子さんという女の人がいますけど、その人のものはカワイ出版で、今、二五刷ぐらい重ねています。一刷が多くても五百部ぐらいだと思いますけど、それにしても楽譜としては多いんじゃないでしょうかね。その曲は、ぼくの若いころの詩が四曲入っていて(「水底吹笛」「木馬」「夏のおもひに」「方舟」)、非常に力をこめて作ったもので、木下さんにとっては初めての試みでした。それがそのまま、いわゆるヒットしているんです。合唱曲としてはしょっちゅう歌われているらしい。彼女の最初の作品に近いもので、同時にそれがあたって、歌われているということはよかったなと思います。木下さんは、詩の内容全体のとらえ方にハートがあって、いいんですよね。

 NHKが小学生・中学生・高校生の曲を募集することが一年に一回あるらしいのですね。このあいだぼくはそれに呼ばれて出ました。高校生の部の詩を作ってくれと言われて、そのときに、作曲の予定は木下牧子さんですと聞いたから、それじゃあやりますとすぐに受けた。それがこの間NHKで放送されました。いい感じの曲でしたね。

 やっぱり作曲する人と詩を作る側とがお互いに知り合いだった、知り合いであるということがなんらかの意味で意味があるような気がします。ただ詩を見ただけでいいなぁと思って、それをそのまま曲にしてくれるよりは、その詩も好きだけども、同時に作った人を知っているということは、作曲する側でも多少は関係があるのかなぁという気がしますけれど。

 ほんとにわからないというか、えー、すごい曲になってるなと思ったものの筆頭は、武満徹(たけみつとおる)が作曲した、ぼくの「環礁」、いわゆる珊瑚礁ですね。武満徹のいわば初期のものなんだけど、とにかく聞いてびっくりしましたね。

 ぼくのことばは、完全に音になってしまっている。音って、つまり意味はほとんどわからない。それで音も低音からものすごい高音までぶーんと飛んだりね。非常にダイナミックな曲でしたけど。ぼくは初めて彼の曲が発表されたときに聞きにいって、「あーっ」とびっくりしたけども、同時に非常に気持ちよかったね。ぼくの作ったことばが、完全に解体されて音の塊になって、ぶーんと飛び散っている感じがしてね。これはすごいな、こいつはやっぱり大したやつだなと思った。

 日本の歌曲の世界でもああいうふうに現代詩を大胆不敵にばーっとばらばらにして、その上で音として再構成して、見事な響きにしたということでは、早い時期に黛さんなども多少やっていると思いますけど、特に風穴をあけたのは武満徹だったと思います。その曲は一九六三年に「国際現代作曲家会議」優秀作品賞第五位になりました。賞をもらっているけども、あんまり評判にならなかったですね。

 武満が死んでからあとは、いろんな曲がレコードとしては出ていると思いますし、演奏会もずいぶんやってますが、「環礁」というのはめったにやらないですね。そのかわり、CDは二回か三回出てますね。

 ぼくにとっては非常に感じがよかった。というのは彼がぼくに書いてくれというときに、なんて言ったかというと、簡単なんですよ。「大岡、ぼくにことばをくれないか」それだけ。「ことばをくれない?」それですぐにわかったから、作ったんですね。

 そのころのぼくら仲間の間では武満という人は特別に無口で怖い人で、もし彼が怒ったりすると恐ろしいことになるんじゃないかという印象を与えた人ですね。けんかしたりしたら、彼がばっと手を出す、手をそろえてね、きちんとまっすぐにこっちの目を突き刺すようにして出すだろうという感じがする男でしたね。それが武満徹のぼくの第一印象で、死んでからあとでも、今でもそう思っています。

 彼は谷川俊太郎と、若いころからの大の親友ですね。その後ずっとたってからは、大江健三郎さんも武満徹と親しいわけですけれど。谷川と武満とは、まるで双子の兄弟のようなところがあって、二人とも創造的な仕事をずっとし続けて、同時に高い評価を受けてるのは割合少ないんじゃないかなと思いますね。

 ぼくにも友達がいろいろいるけれど、武満という人は、音楽家というイメージよりは拳闘家、武術の達人みたいなところがちょっとあった。でも、彼は死んでから、こんなに有名になるとはまったく思っていなかったでしょうね。

 彼は、ときどきものすごく怒っていることがあったんです。彼の文章がときどき新潮社から本になって出たりしますね。今は小学館から武満徹全集が出始めていますけど(ぼくは詩を書かなきゃいけないのを、今、思い出した。大変だ。もう締切りになっていると思います)。彼が、あるときぼくに、「大岡! わかるか。頭にくるよ」と。「おれのレコードはまるで売れねぇのにね、本は売れるんだ」。本が何万部と売れるでしょ。その度に頭にきて、レコードはちっとも売れない、と。

 でも、死んでからはそんなことはありませんね、ずいぶんCDも出ていますから。友達同士であるために、そういう武満の姿を知っているわけで、それはみなさんが想像もできないでしょうね。ふつうならちょっと考えられない、と思います。

 くだらない話をしました。これで終わりにします。






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