二十一世紀を開く扉 〜言葉の探求、美の思索〜
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月例フォーラム/平成14年4月

※平成14年4月19日に行われた第一回月例会の記録


詩「マリリン」について



はじめに

 今、お話しになったのは、花神社という出版社の社長の大久保くんです。私の本をたくさん出してくださっていますけども、今回のこの催しには初めから非常に積極的に関わってくださっていて、私が一番積極的ではありませんでした。これははっきりしている。ただ、私は今の日本というものが、とっても嫌な感じが多くて、不愉快だと思っていて、そのために、常に居心地悪く思っているもんですから、多少は居心地いい社会にしたいと思って、それで何となくぶつぶつ言っているわけですね。そうすると、まわりで、それならばということで、こういう催しをして、若い人にいろいろとお話していったらどうかというようなことで。確かにそういう場所があって、もし話すことができるならば、やってもいいかなと思って、このようなことになりました。

 私は、自分の詩について、皆さんに進んでお話をするなんていう人間ではありませんので、そんな話聞いたことがないという人が多いと思います。ですから、めずらしいという取柄がありますので、初めの何回かは自分の詩についてお話ししようと思います。自分の詩についてお話しするということは、当然、他の人についてもお話しすることになります。その話の中で、何か皆さんのご参考にでもなるようなことがあればいいなと思っているのです。

 私は今、申し上げたように、ここのところの二、三十年か三、四十年は居心地悪いという気がずっとしている人間です。自分が若かった頃は、もうちょっと違った感じでいたような気もするから、そのころに書いた詩などを題材として用いながら、周辺の話もしようと思っています。

.


『鰐』と『ユリイカ』

 今日は、「マリリン」という詩をまず読むことにしました。「マリリン」というのはもちろんマリリン・モンローのことです。この詩は、マリリン・モンローが死んだ、自殺したわけですね、そのあとで作った詩です。発表したのは、一九六二年だったと思いますけど、数人の人と一緒にやった『鰐』という小さな同人雑誌です。同人は吉岡実さん、清岡卓行さん、飯島耕一さん、岩田宏さん、そして私という五人で、二年間あまり、十冊まで出した雑誌です。

 これはユリイカという出版社が出してくれていた。ユリイカの主人、社長だった伊達得夫さんは突然、死んじゃいましてね、一九六一年に。彼、死んだときに四十一歳だったんですけど、四十一歳の男としては、戦後日本の現代詩の世界では、画期的でかつ歴史的な功績のあった人です。そのあとで例えば思潮社とか、花神社とか、そういう会社が続いてくるわけですけど、その先頭を走っていた男です。この伊達得夫が死んだのは、我々にとってはいわば一つのエポックでした。彼が死んでしまったものですから書肆ユリイカはつぶれたんですね。

 十年後に、青土社を興した清水康雄という人が、『ユリイカ』を復刊したいということで我々主立った連中みんなを回って了承を求めて、改めて始めたのが、現在出ている厚い『ユリイカ』です。昔はうんと薄かった。薄かったけれども実質は今よりずっと厚いと思いますけど、というふうなことを言うと、またとんでもないと言われる恐れがありますけども…。このうすい雑誌だから全部読めたんですね。はじまりから終わりまで。これがよかった。今はこんなに厚いからね。一ページか二ページ読むと、これでもういいやってなっちゃうんです。現在は非常に居心地悪いなと私の思う理由の一つは、それにあるんですね。

 いずれにしても、なるべくならば人が何か読んだりするときには、簡単に読めるもの、薄いもの、それが好きなんです私は。分厚いものとか、すごく難しいことがいっぱいつまっているもの、そういうものは大嫌い。だいたい頭が非常に単純にできているものですから。

 概して言うと、今の日本の、経済的にひどくもうかっちゃって、大変なぶくぶく太りになった時期からは非常にぼくは居心地悪いなと思い続けています。現在の日本はえらく落ち込んで、落ち込んでいるけれども社会的には気分の悪いことばっかりですね。テレビジョンでおじさんたちがしょっちゅう「どうもすみませんでした」と謝ることばっかり流行っている。こんなところじゃなかったんですよ、日本てね。そういう意味でもすごく暮らしにくいなという感じがしている人間ですが。


「マリリン」

 それでは、「マリリン」という詩を読んでもらうことから始めようと思います。それでは、奈良禎子さんに読んでいただきます。私は明治大学の法学部の教授だった時代に、文学部の大学院にも出張していたんです、法学部からね。そのときに奈良さんがおいでになって、私の授業に出たいとおっしゃって。それ以後ずっとおつきあいがあるという方です。では、すみませんがよろしくお願いします。


マリリン

そこからフィルムが

あらためて逆転してくる

 *

彼女の眼の抛物線は

もう夢の結晶する森にとどかない

霧のような死の炎がベッドを乗せて運ぶさきには

優しい白い象が待っているのか

閉ざされた鉛の窓が待っているのか

体じゅうの毛をおとなしくそよがせて

彼女は暗い鏡の上に

洗濯板となって横たわる

鏡の底に

メスが突立つ

.

だが魂の真実は

メスではさわれない

 *

歴史の透明なサングラスの下では

八月の灼けつく丘は

すべてカルヴァリオの丘であろう

マリリンに茨のありかをきくな

透明な毒のとげは

運命的な賞讃の中で育ったのに

小さな虫眼鏡で

アメリカ地図をたどり

彼女の睡眠を占領した

資本主義の癌細胞をゆびさして

こはいかに顔をそむけて語る博士たち

君たちは

自伝の中にしるすな

マリリンの名を

彼女の死の中に

君らのすべては

すでに書かれている

いまは

ひとしずくの涙だけが

すべてを語りうる時代だ

裸かの死体が語る言葉を

そよぐ毛髪ほどにも正確に

語りうる文字はないだろう

文字は死の上澄みをすくって

ぷるぷる震える詩のプリンを作るだけだ

彼女の両眼は陥没し

湖水となる

月光にきらきら光りながら

虫の大群のように

見渡すかぎり水面を覆い

ただよっている

フィルムの屑

その散乱する反射光が

血友病のハリウッドを

夜空に浮かびあがらせる

.

ほんとうの血を流して死ぬには

はだかで横たわらねばならなかった

 *

マリリン

君の魂は世界よりも騒がしく不安で

エビのひげより臆病で

世の女たちの鑑(かがみ)だった

アジサイの茂みからのぞく太陽

君の笑いに

かつてヤンキーの知らなかった妖精伝説の

最初の告知があった

君が眠りと眼覚めのあわいで

大きな回転ドアに入ったきり

二度と姿を見せないので

ドアのむこうとこちらとで

とてもたくさんの鬼ごっこが流行った

とてもたくさんの鬼ごっこが流行ったので

君はほんとに優しい鬼になってしまい

二度と姿を見せることが

できなくなった

そしてすべての詩は蒼ざめ

すべての涙もろい国は

蒼白な村になって

ひそかに窓を濡らさねばならなかった

 *

マリリン

マリーン

.

ブルー

 どうもありがとう。

 この詩は、ある程度評判になったものですから、いくつかの本にときどき再録されたりしていることもあります。ここにいらっしゃる方はほとんど、マリリン・モンローが実際に生きていたころのことをご存知ない、多少ともうわさできいたという経験がある方も、そんなに大勢いらっしゃらないかもしれない。

 マリリン・モンローは戦後アメリカにおけるセックスシンボルです。セックスシンボルとしての俳優さんとしては非常に有名でしたけども、私はそういうふうな観点からだけではなくて、もっと別の観点からマリリン・モンローが好きだったんですね。もっと別の観点なんてえらそうなことを言うけど、そんなに特別な考えがあるわけじゃないですが。マリリン・モンローのことを、二、三回、文章に書いたことがあります。

 一つは草月会が出している『SAC』という真四角の小さな雑誌でしたけど、それにしばしば文章を書かされたわけですね。その中で映画のことなどを毎回毎回書いた時期もあります。私も、そのころは映画を多少は見ていたので。とにかくマリリン・モンローという人が非常に好きだったということもあって、『SAC』という雑誌でもマリリン・モンローのことを書きました。

 今日のお話をする上では、皆さんにどういう観点からマリリン・モンローを見ていたかということをお話ししたほうがいいと思いますから、自分の書いた文章、それを読ませていただきます。

 これは、やはり草月会が出していた雑誌『いけばな草月』に一回書いたものでありまして、それはのちにまとめられて草月会から本になりました。今は文庫本にも入っていますけど、簡単には手に入らないと思います。題名は『風の花嫁たち』といいます。『風の花嫁たち』というのは、ココシュカというヨーロッパの画家の絵の題をいただいちゃったのですけど、マリリン・モンローだけでなくて、モンローと名前が似ている女優ジャンヌ・モローも含めて、数十人の女性について書きました。これは全部実在の人々のことを書いたのですけど、さまざまな意味で力があり、生き方が魅力的な、風にふわぁーっと飛んでいる感じの女性たちというものの小さな肖像集なんですね。最初に出てくるのがマリリン・モンローに関する文章なので、ちょっと聞いてみてください。

 『バス停留所』(『バス停留所』というのはモンローの映画です)だったか『荒馬と女』だったか、それとも『お熱いのがお好き』だったか、マリリン・モンローが安酒場のテーブルで居眠りをし、よだれをたらす短いシーンがあった。その横顔の美しさが忘れられない(そのよだれを垂らしているモンローがとてもよかったんですね)。モンローが死んでしまってから、よだれをたらして美しく見えるような大スターは、映画の世界から消えてしまった。ふしぎな柔らかさと浸透力をもった性的魅力を発散しつつ、マリリンはつねに、どこででもあどけなくよだれをたらして眠れるような、発育しきっていない無邪気な非行少女といった面影をもっていて、それに出会うと、男は他愛いなく武装解除させられてしまうのだ。モンローという存在には、わけもなく男のノスタルジーをそそるものがあった。グラマー女優でありながら、彼女の性的魅力は必ずしも純然たる肉体美から来たものではなかったように、私には思われる。彼女の表情にいつも一種のニュアンスを与えていたのは、何かに驚いたあとの放心に似た、じつに無防備な表情だった。喜劇女優としてのマリリン・モンローにあっては、この放心の表情はことにも有効に使われていたものだ。そういう表情のとき、彼女はグラマー女優というよりは、ロリータ的な(ロリータというのは今ではあまり言いませんかね、中年男を誘って、いろいろと中年男に人生の不思議なことを味わわせるような、若い、不思議な魅力を持ってる、そういう妖精的な女性、それがロリータなんですけど)小妖精であって、そこに男のノスタルジーは音もなく吸いこまれてしまうようであった。こういう女優には、ヴァンプ(妖婦)の役は不向きだ。全裸のヌード・カレンダーで売り出した彼女にとって(彼女の売り出すきっかけはすっぱだかの写真で、それがカレンダーで二枚あったんですね。それで一躍、爆発的に人気が出た)、セックスの神秘性をちらつかせながら、男を征服するヴァンプ役ははじめから縁がなかったといってもいい。そしてこの辺に、戦前と戦後の肉体派女優の相違を示すひとつの象徴的出来事があったのかもしれない。モンローはその「そのあらゆる部分からセックスが放射されている」肉体を持ちつつ、つねにささやかな女の幸福――すなわち、ささやかな結婚――に憧れる可愛い女の役を演じつづけた。映画の中のみならず、現実生活でもそれを演じようとし、そのささやかな望みさえ遂げることができずに、自分を消滅させた(マリリン・モンローは実際に結婚した相手がアーサー・ミラーという大劇作家だったわけですね。それは彼女はほんとにうれしかったんですけど、結局その結婚は悲劇的な破滅になって、それから以後は一人ぼっちで生きていたんです。やがて六二年に突然彼女はロサンゼルスの自宅で朝、死んでいるのがみつけられたというわけですけど)。モンローはセックスが一個の「もの」として手軽に物量的に処理されるようになった一時代を代表する女優だったが、そういう時代の苦悩を、彼女自身の人生体験においてあらかじめ経験しつくした女優でもあった。その両面において(つまり一方ではセックスはモノとして大変に手軽にしかし非常に高く売買される、そういう時代を代表していた女優だった。しかし同時にまた、その苦悩、そういう時代のもっている苦悩というものを彼女は本当に自分の人生体験で早い時期から持っていたんですね)、マリリン・モンローの名は永く記憶されるに値するだろう。伝記作者によると、彼女は七、八歳の時、孤児として預けられた家で、ある「紳士」に陵辱され、口留めのため五セント銅貨をつかまされた(えらい簡単な口止めですね。五セントというのはべらぼうに安いですよ)。彼女がそれを訴えた里親は、あの立派な「紳士」がそんなことをするはずがないとかえって激しく彼女を叱責した。モンローは以来死ぬまで、軽いドモリのくせが直らなかったのだという。自分がそれについて全く無智であるセックスが、にもかかわらず「もの」として金銭に変りうることを知ったこと、しかもそこで受けた傷を、傷として認めるのを禁じられたこと――そういう体験のくりかえしから、あの驚いたあとのような放心の表情も芽生えたのではなかろうか。セックスの女優としてのマリリン・モンローの中には、現代的な物質主義の最も華やかな代弁者と、その最も悲惨な犠牲者とが、たぐい稀れな状態で結びついていた。一種の赦しの優しさに覆われた聖性さえ、彼女のあどけない表情の中には感じられた。その表情は男の中に、牡ではなく、父親を、つねに探り求めていたように、私には思われる。

 という文章です。要するに私にとってはマリリン・モンローというのはセックスシンボルというよりは、むしろそれの悲惨な犠牲者としての面が非常に強いということが、魅力だったのですね。魅力という言い方も変ですけど、そういうふうに思っています。


マリリン・モンローと『荒馬と女』

 別の例でいうと、『ミスフィッツ(Misfits)』という題の映画がありました。ミスフィッツというのは日本の映画としては『荒馬と女』という題です。アーサー・ミラー、モンローの別れてしまっただんなさんが彼女と別れてからあと、『ミスフィッツ』という題名の芝居を書いて、それが映画になりました。

 舞台はネバダ州のリノというところです。リノというのは離婚で有名な都市です。離婚したい夫婦がそこへ行って、六週間滞在する。そうすると離婚許可が取れるんですね。その離婚都市リノに、しっくりいかずに悩んでいる夫婦がけっこう集まって来て、暮らしているわけです。そういう連中の何人かをテーマにしている映画ですね。

 六週間とにかく我慢すれば自分は晴れて離婚できるということで来るわけですけども、逆にその人々を描く映画ということは、その人々の生活感というものをほとんど描けないわけですね。そこにいる連中は六週間の間は、言ってみれば抽象的な、離婚するための舞台の上に集まっているという人々ですから、本当の意味の生活者ではないんですね。

 それにもかかわらず、そこで劇は起こるわけで、主人公として選ばれたのは、カウボーイをやっている、クラーク・ゲーブル、もう一人のカウボーイがモンゴメリー・クリフト。この二人が活躍します。それにもう一人これはカウボーイではないのですけど、自動車修理工であるギドーという男、エリー・オーラックも主人公。その三人がそこに集まっている。彼らは、無気力な給料生活をして都会で不自由さをじっと我慢しながら暮らしている人間たち、それをばかにしているんですね、三人とも。そんな連中とは違うんだ、おれたちは男の世界の自由を守ろう、という、小英雄なんです。自分たちは自由に生きるぞ、結婚なんかにしばられないぞと、意気込んでいる。その自由を守るために彼らが選ぶ仕事があった。それは、西部一帯にはまだ高原に野生の馬がけっこう残っている、その馬に投げ縄をかける。かっこいいんです、すごく。で、その野生の馬をつかまえて、全部馬肉業者に売るというものです。

 結局、自分たちの自由を守るために馬の自由を絞め殺しているわけですね。馬を絞め殺して金に換えている。それによって自分たちの自由な生活を確保しようとしている。みみっちい汚れかたをしているわけです。それをはっきりと指摘して、その連中に「あんたたちはほんとうにくだらない」と絶叫して、彼らの計画を断念させちゃう女が現れるんですね。その女が実はリノに離婚をしにやってきた女で、マリリン・モンローなんです。ロズリンという名前の都会女なのですけど、彼女もリノまで離婚するためにわざわざやってきた。だから自分自身も非常に不自由なんですね。その女がものすごい形相で、この三人を罵って「あんたたちは実にくだらない、汚れ果ててる」と糾弾するわけです。

 それで三人ともかなり深刻に悩む状態になってしまう。三人ともみんなそれぞれ傷を持っている。一人は戦闘中に飛行士で人を殺したということが心の傷になっている。もう一人は死んだ二人の子供がいて、その子供二人の死に対して自分は責任があるという痛みを持っている。もう一人は疎遠になった母親に優しくしてやらなきゃならないのに、わざわざ母親に対して冷たいそぶりをしている、そういう意味でやはり心に傷があるわけですね。そういう連中だからこそ、自由な生活をむしろ一生懸命望むことになるわけですけども。

 アーサー・ミラーの芝居ですから、うまく書かれてますね。アメリカで精神分析がはやった時代があって、その時代の最初のころですね、これは。そういう時代のアメリカというものを非常に批判的にとらえている映画でした。マリリン・モンロー、彼女だけがその男たち三人を批判する立場に立っている。だけど、批判する立場に立っている女がまた、浮き草のように都会から流れ着いた女ですからね、そういう意味で『荒馬と女』というこの映画は、全体としては意味がいろいろあった映画だと思います。


モンローの魅力の本質

 モンローというひとが三人の男たちにとりまかれて発揮していた、一種不思議な、今、日本語でいえばあたりまえみたいになってしまったけど、よく言われている「癒し」とかね、そういう効果というのは非常に彼女はあった。ぼくのことばでいうと、彼女の象徴しているものはノスタルジーですね。ノスタルジーのいわば塊がモンローなんです。そのノスタルジーがあるために、まわりの男たちが、みんな彼女のところへ行くと武装解除されたようになってしまう。現実的にはどうしてもうまくいかないような人々が集まっているんだけど、最後のところで彼女の表情とかしぐさとかそういうもので許されている、自分たちは許されたというふうに思えるところが彼女にはあった。マリリン・モンローは彼女自身にはぜんぜん関係ないようなところでもふっとそういうのが出てしまう人ですね。女優さんとしては珍しいくらいに普遍性があった。普遍性があったということは言い換えるとノスタルジーの化身だった、とそういう意味ですね。普遍的な意味で存在感が非常にあった人だというふうに私は思っているんです。

 第二次大戦後のアメリカには傷を持っている人がいっぱいいましたけど、そういう人々はなんとなく彼女の前へ行くと許されている感じがして、彼女にほれるとか愛するとかそういうことはもちろんありますけど、それ以上に、根本的に、彼女の前へ行くとみんなが気持ちがきれいになって、彼女によって受け入れられることを望むような、そういうところがあったように思うんです。それがこの人の不思議な魅力だったような気がするんですね。ですからこの人の映画の写真、映画だけじゃなくて写真家がとった写真などもいっぱいありますが、それを見るとエロティックな要素というものがあんまり強調されていません。写真家たちはみんなやっぱりもう少し違う、エロティックなものを超えたところにある、精神的な、最終的に言ったら男たちのいろんな醜さも許してあげるよっていう感じで存在している、一種の、聖なる女の人というところが、魅力的にうつったんじゃないかなという気がするんですね。

 彼女は生まれたのは二〇年代の終わり頃ですけど、活躍したのは一九四〇年代から五〇年代。それで六〇年代の初めには死んじゃったというわけです。

 第二次世界大戦後のアメリカにはいろんな意味で問題があった。彼女の存在が、そこを実によく表現できたと言えると思うんですね。この人はそういう意味では時代とやっぱり切り離すことができない。彼女はヴァンプ役をやった戦前のいろんなアメリカの女優たちとは違って、初めすっぱだかで出たんですね。そういう意味では肉体的な神秘性というようなものをわざわざ売りに出す必要がなかった。隠す必要がなかった。むしろ男に対しても非常に優しい聖母さんみたいな感じがしたのではないか、という気がするんです。ですからマリリン・モンローというのは、やっぱり一九五〇年代の代表的な女優さんであったと思えるわけですね。


モンローの椅子

 モンローのことをテーマにした作品はたくさん書かれていますね。詩でも、ほかのものも。中に、独特なモンローの利用の仕方をした人がいましてね、それは建築家の磯崎新(あらた)さんです。私も彼の友人ですが。

 彼の先生は丹下健三さんですけど、丹下さんの代表作の一つは新宿にあるでかいビル(※ 東京都新庁舎 一九九一)ですね、人を圧倒するような作り方をしていますけれど。丹下健三さんの弟子である磯崎くんはぜんぜんそうでなくて反対ですね。むしろ磯崎くんの建物はどちらかと言ったら低いほうです。全部好きかといわれたら、ちょっとうーんていうとこもあるんですけど。彼は一九三一年生まれで、実は私と同い年で、一九五〇年代から頭角を顕して、それ以後現在にいたるまで、日本だけでなく世界の代表的な建築家の一人として有名になっているわけです。

 この人が、一九六七年に、短い文章を書いたんです、「マリリン・モンロー様」という題。四百字詰めで一枚半ぐらいの短い手紙形式の文章なんですけどね。マリリン・モンローの裸で有名になったカレンダーが二枚ある。彼はそのカレンダーを利用して、雲形定規を作ったんですね。建築家ですから、定規をいっぱい使うんです、雲形定規をね。モンローのヌード写真をそのまま原型にして、ヌード写真の線を全部利用して、定規を作った。今言った「マリリン・モンロー様」に、その雲形定規のコピーがあります。要するに、モンローのヌードの体の線をそのまま利用して、いろんな箇所の線をみんな適当に切り貼りして、それで作図するときに必要な様々な線に利用したわけです。

 非常にわかりやすい一つの例は、それを使って磯崎くんが椅子を作りました。背の高い、仕事机などで使う椅子です。モンローの線がそのまま椅子の背になっているわけですね。ですから、みんな座ると確かに気持ちがいいらしいですね。頭のいい人は頭のいいことをやるなと。頭の悪いやつは詩しか書けないけど。

 磯崎くんが作った建築、特に彼の出身地北九州にはたくさんあるんですけど、その中の一つ、大分県立図書館にその椅子をおさめています。「昨(六六年)秋には日本のエンペラーとその御一族も来館され、したしくあなたのカーブをもった椅子のうえに腰をおろされ、御休息されたとのこと、心地よさの加減についてはおそれおおくて聞きもらしましたが、いたく御満悦の御様子であらせられたとも聞いております」ということをその文章に書いてあります。

 この例からも、マリリン・モンローはひとつの時代を代表する、シンボリックな代表者でもあるというふうに思います。

 私の利用の仕方は、それを少しセンチメンタルに感情の面で利用しているわけですけど、磯崎くんは非常にクレバーに、そういう物質として使っているわけです。

 いずれにしても私どもの年代は、ちょうど磯崎くんもぼくと同じですから七〇歳をすぎているわけですけど、そういう連中が暮らしていた時代の一つの代表としてモンローがあるんじゃないかという気がするんです。今では、マリリン・モンロー的な女優さんというのはほとんどいなくなってしまった。セクシャルな感じがするんだけども、一方では実に清純な感じがする。そういう意味で女優さんの中でも珍しい人だったと思います。


詩「マリリン」を読む

 さきほどの私の詩、詩について説明するというのは非常にしにくいわけで、あんまりしたくないんですが。一応、なんだか難しい詩ですね。ですから、多少は説明したほうがいいかなと。

 外部的な説明をしますと、モンローは一九六二年の八月五日に、ロサンゼルスの自宅で電話の受話器を握ったまま、急死しているのが発見されたということになっています。受話器を握ったまま死んだというので、ものすごくみんなに謎めいた印象を与えて、いろんな詮索もたくさんなされましたね。その中の非常に重要なものの一つは、ケネディ大統領とも関係があったといううわさです。

 いろんなことを言われて大騒ぎになったのですが、彼女が死んだときに私は私自身の経歴でいうと、一九六二年には、読売新聞の外報部の記者だった。読売新聞は五三年に入社しまして、一〇年間勤めて辞めちゃったんですが、やめる直前のころです。そのころぼくはジャーナリストであったということもあって、外のいろんな出来事に対して多少は敏感に頭が働いていたこともありますけど、特にモンローに関しては、この人が死んだときに異常な状態で死んだこともあって、いろいろと考えること、感じることが多かったですね。それでモンローの死を悼んでこの詩を作りました。『鰐』という刷数がほんとに少ない詩の雑誌の九月発行の第十号に出しました。その第十号をもって、『鰐』という雑誌はなくなった、つぶれちゃったんですね。

 この詩は、最後の行、「マリリン/マリーン/ブルー」という三行があればそれでいい、というご批評を賜ることもありました。実際に私よりも詩のうまい方々がいっぱいいましたから、そういう方々は「マリリン/マリーン/ブルー」なんて、こんなちゃちな詩を書きやがってと思って、癪に障った方もいたと思うんですね。そういう連中は「なーに、あんな詩なんかマリリン/マリーン/ブルーって最後の三行だけでいいのさ」ということをのたまったのかもしれないけど、実際は私は「マリリン/マリーン/ブルー」というところへ到達するまでの間に、けっこうやっぱりいろいろと考えていたことを書き込んだわけです。

 彼女が死んだときに、詩を書きながら感じていた大事なことは、「鏡の底に/メスが突立つ/だが魂の真実は/メスではさわれない」ということです。第三連にあることばですね。

 「歴史の透明なサングラスの下では/八月の灼けつく丘は すべてカルヴァリオの丘であろう」、カルヴァリオの丘というのは、もちろんキリストがはりつけにされた丘ですね。そのカルヴァリオの丘、ですから畏れおおくもマリリン・モンローとキリストさんの虐殺された丘のことを並列しているわけですから、気持ちのとしてはマリリン・モンローの死もキリストの死も同じようなものだということがあったんだと思います。

 「マリリンに茨のありかをきくな」という「茨」というのはもちろんキリストは殺される前に茨の冠をかぶせられて、山へ登りますね、そこのところを言っているわけです。死んだマリリン・モンローは、一方ではアメリカ資本主義の犠牲者であるという感じがあって、もう一方ではずっと遠くキリストまでも視野に入れているという感じなんですが。結局、彼女は運命的な賞賛、つまり人々にすごく誉められていろいろと話題にされた。だけどそういうことは全部運命的だったのだ、彼女は最終的には殺されるような、運命的な形で賞賛され続けたのだ、というようなことを考えていたわけです。

 「彼女の睡眠を占領した/資本主義の癌細胞」、これはやっぱり彼女は資本主義社会の、特に映画産業というものの一つの犠牲者だと思いますけども、彼女の死をきっかけにして、資本主義が彼女をこんなふうにだめにしたんだというようなことをさかんに論じたえらい批評家などもいました。そういう人たちも含めて、私はなんだかつまんないという感じがしたから、そういう「博士」たちに対して、おまえたちはまかりまちがっても自伝の中にマリリンの名前を得意そうに書くなよと。ぼくはそのころ若かったので、若い人間の頭に少し血が上ってこんなことを書いているというふうに思います、今になってみると、ちょっと恥ずかしいような感じですけど。

 そのあとで、「いまは/ひとしずくの涙だけが/すべてを語りうる時代だ」と言ってますけど、この辺からなんとなく自分の言いたいことが言えてるような気がするんですね。

 こういうの、自分でしゃべりだすとちょっとだめですね。大丈夫かなと思う。少し頭冷やすために、休憩いたします。

  〈休憩〉

 自分の詩についてしゃべりだして、一行一行ながめていくと、だんだん頭がカーッとなってわかんなくなっちゃうところがありましてね、恥ずかしいことですけど。一応、少し頭を冷やしてきましたから、まあなんとかなると思いますけど。

 「いまは/ひとしずくの涙だけが/すべてを語りうる時代だ」というところは、やっぱり何か言いたかったんだなと思います。彼女の死というものに対しては、例えば「文字は死の上澄みをすくって/ぷるぷる震える詩のプリンを作るだけだ」なんて言ってます。かなり気持ちとしては冷静ではありませんですね。しかし、このときは書きたかったんですね。要するにアメリカ、特にハリウッドというもののありかたについては、私は私なりに、いろんなことを感じていたんだと思います。結局、「ほんとうの血を流して死ぬには/はだかで横たわらねばならなかった」という行とか、その前の「ひとしずくの涙だけが/すべてを語りうる時代だ」とか、こういうところは詩を作る場合の、単純な出発点なのですけど、こういうものがないとそこから広がっていく詩というものにならないと私は思うんですね。

 最後のところで「マリリン」と呼びかけているわけですが、そこのところでもかなりアメリカに対する斜(はす)に構えた姿勢があります。

 「君の魂は世界よりも騒がしく不安で/エビのひげより臆病で/世の女たちの鑑だった」、こんなのは、世の女たちが怒りますよね、こんなこと言われたら。「魂はエビのひげより臆病で」、エビのひげというのは、ぴくぴくぴくとすごく震えますね、そういう感じがぱっと浮かんだからこう書いているんですけど、それに対して、「世の女たちの鑑だった」なんていうのはけしからんですねぇ。今なら、もう少し別の書き方をするか、あるいは書かないか、と思いますけど。しかし、このときはマリリンの死に対する哀悼の気持ちが強かったのですね。それでこんなふうなことをばっばっと書いているのだと思います。

 「君の笑いに/かつてヤンキーの知らなかった妖精伝説の 最初の告知があった」、アメリカには妖精伝説のような伝説はあんまりないと思いますね。ヨーロッパの中世の森などに覆われたところでないと、妖精というのはなかなか出て来ないような気がします。けれど、マリリン・モンローという人は珍しくアメリカで生まれた妖精だったという気が私はしているんですね。しかし、その妖精も本当にもう死んでしまってそれっきりになってしまった。


「口」と「国」

 この詩の中で、皆さんになーんだと言われそうなことを一つお話ししますと、「君はほんとに優しい鬼になってしまい/二度と姿を見せることが/できなくなった/そしてすべての詩は蒼ざめ/すべての涙もろい国は/蒼白な村になって/ ひそかに窓を濡らさねばならなかった」という数行があります。ここのところ、「すべての涙もろい国は」となっていますけど、実は、初めは「すべての涙もろい口は」だったんですよ。「国」という字を略字で書くと「口」という字に間違える可能性がありますね。ぼくははじめ「涙もろい口は」と書いたんですが、それが「国が」に誤植されてきた。それを眺めているうちに、どうも「口」よりも国のほうがいいと思ったんですね。校正しながら眺めていて、やっぱりこれは国のほうがいいやと。これは一種の天啓的なものですね。天からそのような啓示があったというふうに思って、そのままにしました。

 だから当然、そのあとのところはほかの内容になっていたはずなんですけど、「国」にしましたから、「蒼白な村」というのが出てくるんですね。この辺は今ではもう、作ったとき、校正するときにどう変えたかは全部は覚えていませんけれど、「口」を「国」にしたことだけはちゃんと覚えている。「国が蒼白な村になった」、それで詩のガラとしては大きくなったのですね。だからそれはいいことだと思いますけど。そして 「ひそかに窓を濡らさねばならなかった」とずっと続いていくわけで。


「マリリン/マリーン/ブルー」

 そこまで行ったらもうあとは書くことがなくなって。それで最後に呼びかけたんですね。「マリリンよ」と。「マリリン」と呼びかけて、その次にすーっとつながって出てきたのが「マリーン/ブルー」なんですね。それはもう非常に簡単にすっと出てきたんです。あ、これでいいやと思ってやめました。そうしましたらこの三行があればいいと言われましたね。そう言われたことはある意味では満足しましたけれども。「マリリン/マリーン/ブルー」という三行を発見するまでに数十行の詩を作ったということは、やっぱり意味があったような気がするんです。

 もちろん「マリーン/ブルー」ですから、マリーンブルーというのは色のマリンブルーですからね、マリリンとマリーンはそこで一つごろを合わせているわけです。「マリーン」と言ったらそのあとは「ブルー」ときて、ブルーというのは憂鬱なブルーという意味もあるし、それからマリーンブルーの非常に深い青というのもあるし。だからマリリン・モンローを哀悼する詩としては、ここのところはこれでいいんじゃないかと思っているわけですね。

 詩というものは、ときどき、偶然のことで突然変わったりすることもあるということは、ぼくの場合にはあるんですね。ですから単に、何でもこれは原文と違っているから直さなきゃと、すぐに校正するというか、元の原稿を絶対に重んじてやりましょうというようなことは必ずしも必要ない。ただし、私がこういうことを言ったから、じゃ、そのとおり他の人の原稿もやっちゃったら、大変なことになりますから、やらないようにしてください。しかし、場合によってはそういうことがあるんですね。一種の天のお告げみたいのがあるんですよ。めったにはないけど。


一九五〇〜六〇年代

 マリリン・モンローみたいな人がいた時代というのは、とても懐かしい、いい時代だったという気はするんですね。ただし私は古い時代を懐かしむ気持ちはほとんどない人間ですから、あんまりそういうことは言いたくないのですけど。しかしマリリンという人は懐かしい人ですね。映像で見ているだけだけども。

 ジョー・ディマジオと二人で日本にやってきて、ディマジオ、この大打者が、まったくほっぽかされちゃって、マリリン・モンローがほうぼうでもてにもてちゃったということがあった。そのころには、マリリンのこういう懐かしさみたいなものはあんまり感じなかったですね。彼女は得意の絶頂でしたからね。

 しかしアーサー・ミラーと一緒になって、どういうことで別れることになったのかは知りませんけども、離婚したあとは、非常に寂しい女だったと思います。その寂しさが『荒馬と女』のような映画では、実によく出ていたんですね。彼女は亡くなる直前のころにはアクターズスタジオに通って、俳優としてもものすごくがんばってやり直そうと思っていたわけです。大スターになってからあと、精神的な意味でさまざまな苦悩もあったろうし、そういう苦悩に応えて、自分で一生懸命アクターズスタジオなどというところへ行って学ぶということは、初めから役者をやり直すということですからね。

 それはアーサー・ミラーの悪い影響かもわからない。アーサー・ミラーという人は、アメリカの劇作家の中では一時期を風靡した人で、左翼です。そういう影響が非常にあったので、マリリン・モンローはかなり、セックスシンボルとしてのマリリンから、目覚めた役者としての生活をはじめようとしていたということがあった。そのことで苦しんで、別れたあとは孤独になっちゃったんですね、とても。

 孤独になって、その一方でいろんなラブアフェアーがあって、その中の一つでかのケネディ大統領とも関係があったといわれた。たぶん、あったと思いますけどね。しかし、ケネディ家というのもまたほんとに奇妙なうちですね。次々に悲劇的な死をとげる人が出てくる。同時に女ったらしであるということも確かですね。やっぱりアメリカの二〇世紀の前半の時代を、非常によく、彼らは代表していたと思いますね。

 そういう意味で、ものすごくおもしろい人がたくさんいた時代というのが一九五〇年代、六〇年代だったような気がします。それに比べると、現在は全世界的に言って、どこの国でもあまりぱっとしない印象がありますけど。実際に地方まで行ってみると、東京というところは異様に局部的な小さな村ですね。そういう感じがほんとにします。日本は今は過渡期、通過しているような気がします。もうちょっとしてからは、ずいぶん変わってくるんじゃないかという予感もするんですね。特に若い人々の感覚がずいぶん最近は変わって来ているんじゃないかなという気もするんです。ただそれが具体的にほんとうにそうなるかどうかということはまだわかりません。まあ、その間のつなぎとして我々は一生懸命生きているというような気がしますけど。

 この奈良さんよりちょっと前のころに明治大学を出て、今やある大会社の社長さんになっている男がいます。その人が今、今日ここにおいでていますけど、彼が「先生、これって知ってますか」と持って来てくれたのがこれです。(見せる)これはマリリン・モンローの切手です。これを持って来てくれた西川敏晴くん、ちょっと説明してよ。

西川:七、八年前にアメリカで発売された切手で、一枚三十二セントのシートなんですけど……。

大岡:君が買ったの?

西川:そうです。額装したら三千円くらい。額のほうが高い。でもそれ全部で一万円くらいでどうでしょうか。商品として売っているのは見たことがあります。

大岡:はああ、なるほどね。

 西川君も、ぼくの教室で話をいろいろ聞いた男ですけど、教室でぼくがマリリン・モンローの話を一時間ぐらいしたらしいんですね、そのことをちゃんと覚えてらっしゃって、本日わざわざこれを持って来てくれたわけです。でも、この写真、ぼくの好きなマリリン・モンローではないんだよね。ちょっと違う。これは少しセックスシンボル風すぎるね。でも、リジェンドオブハリウッド(legend of Hollywood) と書いてある。ハリウッドの伝説というかなぁ、そういう題名で、こういう人の写真などがこういう形でいっぱい売られているんですね。モンローだけじゃなくて、ほかにもいっぱい。でもいいですね。日本にもこういうのあってもいい、と思いますけどねぇ。

 実は今日、初めてでぼくはいったいどういうことをしゃべっていいのかわからないのでとても緊張しましてね、だからしゃべりかたがへたくそ、普段もうまくないけど。今日は特にへたくそだったと思いますけど。まことに第一回で申し訳ありませんでした。第二回目からはもっといろいろな話、でも似たようなもんかな、お話を一所懸命やりますから。実は奈良さんに、もう一回詩を読み直してもらうつもりでいます。そのほうがいいから。もう一度奈良さんにおねがいしたいと思います。

(朗読)

 どうもありがとうございました。

 一応ここでお話はちょっとやめて、みなさんが何かご質問を。

質問者:この時代が窮屈だと、最初におっしゃったんですけど、ぼくはまあ若いせいかあんまり窮屈だとは思ってないんですよ。どんな感じで窮屈だと思っていらっしゃるんですか。

大岡:そうね。要するに窮屈であるないというのはね、非常に主観的な問題ですけどね。物を考えたり感じたりするときには、自分のやりたいこととか、積極的に何かをやりたいとかとそういうことがあって、それがぱっとやれているときは、窮屈には感じないんですね。だけど今の時代は、すごく楽なように見えるけれど、やろうと思っていることが実際はあまり自分でははっきりわかっていないということがある。

 それからもう一つは、何かやろうと思っても、案外自分一人ぼっちで、みんな自由にやってるように見えるけど、一人一人が孤独だ、一人ぼっちだという感覚が、かなり強いんじゃないかという気があるんですね。何かをやるということについていえば、自分自身が何かをやるというだけじゃなくて、ほかの人と気持ちが通っていて、一緒にやれるというような状態が、可能性としていつでもあるというときは、窮屈とはほとんど感じない。そういう意味です。説明がちょっと足りないかもしれないけどね。

質問者:先生が韻文学の中で詩を選ばれた理由というのを、そのもとのところをお聞かせください。

大岡:ぼくのおやじという人が、短歌の作者、歌人でした。ぼくはおやじが二十四歳のときの子供です。彼はほんとうは小説家になりたかったらしいんだけど、そういうふうになる前に子供ができちゃったんです。できちゃったやつがこれですね。それで、身動きがとれなくなっちゃった。さきほどのご質問でいうと「不自由」になった。それから、おやじのような若いやつでも、先生と思って回りにけっこう人が集まって来て、それでますます不自由になった。おやじはそのころからもう短歌雑誌をやってましたから。

 それでぼくが目が開いてことばがしゃべれるようになったころには、すでにもう家にときどき月に何回かは人がやってきて、歌会をやったりしてたんですね。ですからこういうものが社会だと思って育った。そういう意味では自分の身の回りには、短歌がまずあった。だけどおやじは、短歌の歌人になるつもりはぜんぜんなかった。むしろ小説家になりたい。東京に出て小説家になりたいと思っていて、小説の習作も行李にいっぱいある。まったく習作していただけでね。要するに短歌を専門にやる人という感じもあって、ほかのこともやりたいと思ってた若者がぼくのおやじ。だけどそれがうまくいかなかった。子は三界のなんとかってね、足手まといで、やがてその足手まといが二人も三人もできちゃったからね。

 ぼく自身は、小学校のときからそういう家庭の環境があったから、なんとなくおやじの本棚から本を引っ張り出して読んだりすることがありまして、その中には歌集などもありました。それからもちろん詩集もいっぱいあって、小説はそんなにぼく自身は興味はなかったんですけど、少なくとも、詩集と歌集については小さいときからまわりにあったということがあった。これが一つ。

 そして戦争が激しくなってきた時代にぼくは中学校に入りまして、中学三年になったときの夏、八月十五日に戦争が終わっちゃったんです、敗戦して。ぼくのうちは戦災にあいませんでしたけど、隣町の沼津市は丸焼けみたいになりましたね。そういう時代ですから、ぼくの通っていた沼津中学は丸焼けになったので、焼け残っていたある工場を占領して、そのまま居座ちゃったんです。そこで沼津中学がまた再開されたけど、そのときはろくにちゃんとした授業はできなかった。

 ただし、生徒たちの中では実にたくさんのサークル運動が行われてね。沼津中学全体としては、どのくらいあったか知りませんけど、ぼくら、中学三年坊主だったのだけを集めても、それでもサークルが五十ぐらいあったと思うんですね。その中の一つにぼくが仲間数人と始めた小さな雑誌があった。その雑誌が『鬼の詞(ことば)』という、変な題の雑誌です。

 それは指導者の先生が二人いて、その二人とも非常に若くて、二十代の半ばぐらいの感じですね。一人は朝鮮へ徴兵されていって、最下位の二等兵で行って、戦争が終わって帰ってきたときには最下位からは一クラスだけあがって、一等兵になっていたような気がしますけど、いずれにしても最下位の兵士として戦わされて、丸焼けのところにできたバラックのような学校に帰ってきた人でした。戦争で先生たちもみんなやっぱり、やりたいことがあるけどもやれないでいるという不満みたいのがあったんですね。それでその先生たちの中から二人ばかりを生徒のほうで選んで、あの先生はなかなかよさそうだというので、ある日、授業が終わってから三、四人そろって、「先生」と、教室の前で言ったらね、先生があっと身構えたんです、ぶん殴りにきたと思ったんですね。当然そうです。そのころはみんな先生はやられましたからね、生徒に。身構えたんですけど、それがそうではなくて、先生も一緒にやってくれないか、同人雑誌というのをやりたいんですと言ったら、びっくりして、それからすごく喜んで始めたんですね。やがて下級生も一人二人と加わって、その連中と『鬼の詞(ことば)』というグループを作って始めたわけです。

 紙も何もありません。戦後ですから、何もなかったのです。うまいことにぼくらが占領した工場は、軍需工場だった。その一角を占領したんですけど、そこに工員の作業日程を記した紙がいっぱいあったんですね。全部とてもいい紙だった。裏返しにするとまっさらですね。表にはたくさん作業の何かが書いてあるわけですけど、そんなのはもちろん無視して、それを裏返してガリ版で刷った。一人字がとてもうまい重田徳(あつし)というやつがいて、そいつに全部書いてもらって。ぼくら全員が書いたものを、その男が一人で全部ガリ版に切ってくれた。紙の裏がわを使うので、折って袋状にして、二十ページくらいの雑誌にする。それをパチンと雑誌の形に綴じる。三十部から四十部ぐらい作りました。そしてそれを持って、女学校へ売りに行ったんですね。私は行きませんでした、非常に臆病ですからね。一人太田裕雄(ひろを)というハンサムボーイがいて、その男が女学校へ行って売るわけです。するとけっこう売れるんですね。

質問者:それは歌集だったのですか。

大岡:いえいえ、小説もエッセイも短歌も俳句も詩もあった。全部あった。ぼくは初めからそれで出発したのですね。創刊号でなくて、創刊準備号からある。本格的なんですよね、創刊準備号から始めて、一年ちょっとの間に六号出した。

 その段階でぼくは四年生になっていました。四年生になっても受験準備も何もしないんですね、いいかげん。同人雑誌に夢中だったから。いい作品を書こうと思ってね。

 四年の終わりに受験しました。受験したらその字の上手なやつとぼくが、旧制の第一高等学校というところに入っちゃったのですね、うまい具合に。でもほかの二人はまだ沼津にいる。それでどうしよう、と思ったけど、まだ続けるというからね。それじゃあ原稿はだれかがまとめてそれで雑誌を作ろうと。でもガリ版を切るのは無理だ、字のうまいやつはおれと一緒に入っちゃったからね、一高(いちこう)へ。で、沼津中学に残った二人プラス下級生が一人か二人。その連中と一緒に作ったんですけど、字がへたくそなんですよね。見ただけでうんざりしてしまって、あと二号作ったんですけど、もうだめで、つぶれました。だから字というのはすごく大事なんですよ、ほんとに。私の同人雑誌経験で言うと、文字のうまいやつとへたなやつはね、やっぱり違いが出てくる。文字のうまいやつが書いてくれると、ほかのやつもみんな満足して、じゃあ書こうということになるんですね。

 先生方二人はもちろんガリ版とかそんなものはやりませんけど、先生方もちゃんとずーっと協力して、英語の詩を翻訳したものとか、長歌とか散文作品とか、そういうものまでも全部載せていてくれてたんです。今読んでみると、英語の詩の翻訳などうまいですね、やっぱり。今の学校の先生方で、自分が訳したものを出して、みんなで雑誌を作り合うなんていうことをやっている方がどのくらいいらっしゃるかわかりませんけど。

 とにかく、自分の手で全部作った。今では、そういうことはいっさいばかにしてコンピュータでばーっとやる人が増えているでしょうけど、ぼくらは全部初めから終わりまで自分でやった。だけど、それがある意味で言えば、ぼくにとっては文学的経験の最初なんですね。ほかの連中も、みんな非常にうまかった。

 ところがね、全員死んじゃったんです。今はもう一人だけ。私だけなんです、残っているのは。それは『鬼の詞』という題名が悪かった、私はそう思っています。『鬼の詞』というのは、要するに、鬼というのは幽霊ですね、死んだ人。そういう鬼のことばですから、死んだやつが語ってるんですよ、ほんとうに。三十代で一人癌で死んで、それから四十代で一人癌で死んで、それから五十代で一人、これは癌じゃないんだけど、奇病で死にました。二年間ぐらい病気してて、いわゆる誇大妄想狂ですね、一種の。見舞いに行くと、ものすごい上機嫌で「よおよお!」としゃべる。沼津の話などをするんです。「さっきまで沼津時代の下級生が来てくれてさぁ」なんて。そうかおまえ、病気だと思って来たけどよくなったんだなぁ、と喜んで病室から出てきたら、奥さんが追っかけてきて、「あれ全部うそなんです」と。彼の話は全部うそでした。誇大妄想だったんですね。そういう死に方をしたんです。

 連中はみんな頭がよくてね、一人は山本有幸(ゆうこう)といって、フランス革命の裏話を書いた本の翻訳ですけどね、とてもいい翻訳を出した。もう一人は、字のうまいやつ、東大の国史学科を出て、歴史学者になって、大阪市立大学で教えていましたね。何か体が変だということでいろいろ調べたけど結局わからなくて、最後にわかったら、膵臓癌だったんですね。膵臓の後ろがわに癌があってわからなかったのです。一番最初に死んだやつは、ハンサムボーイの男。いずれにしても、みんな末路はよくなかったんですね。

 ですから、ぼくはその連中全体の一種の負託を受けているという意識がかなりあります。今はそうでもなくなったけど、だんだんぼけてますからね。だけど、彼らが次々死んだころには、おれが生き残っていくとしたら、この連中が成し遂げられなかったことをしなきゃならないというふうに思って、ずっとやってきたんですね。今考えてみると、戦後、一九四五年の終わり頃からはじまり、そして四六年、四七年とあった雑誌ですけど、そのころの中学生でこれだけ質のよかった雑誌はほかになかったと思うんですね。こんなばかなことをやったのはぼくらだけだと思うんです、戦後にすぐにね。そういうことやったということは、神のお召があったんじゃないかとさえ思いますね。

 ぼくは初めは短歌を作りました。おやじがやっていて、短歌は五七五七七はすぐできちゃうんですね。作ると、みんなに評判がいいんですよ、すごく。お前のはうめえなぁと。それですっかりいい気になって、短歌ってのはちょろいと思ってやめてしまったんです。七、八十首くらい作ったところで。そのあと今度は外国の詩の翻訳をすごく読んだんですね。ご多分にもれず、リルケとかね。リルケの翻訳は、もうすでにありましたから。戦争中から出ていた。そういうものを古本屋で買って来てせっせと読んでいた。それで、こういうものを書いてみたいなと思って、現代詩というものをちょっと書いてみた。そこから始まって、評論みたいなエッセイみたいなものも、短いものを書いたんです。ですから始まりからぼくの場合は二刀流、三刀流、なんでもやってきたんですね。

 現在は朝日新聞で「折々のうた」というのをやっています。今度ももうあと一週間ばかりで始まるわけですけど、また。かなりきついですね、休みがないんですから。今日も、これが終わったらいろいろ始めなきゃなんないなと思ってやってきたわけですけど。

 最初の三、四回には自分ではこういうことをやろう、ああいうこともやろうと思ってますけども、実際始まってしまうとね、三日や四日はあっという間ですからね。一週間のうちに二日くらいは書くわけです。二日くらいでやって、一日に三本くらいやって、すると二日で六本ですね。それで終わりじゃなくて、最後の日一日もやらなきゃならない。お休みがないですから。ですから、これからきつくなると思いますけどね。

 朝日新聞のほうでもかなりぼくの言い分を通してくれるようになっているのですけど、今回問題なのは、休みの取り方なんです。今まで、ここのところ十年間くらいは二年ぴっしりやって一年休むということをずっと続けてきたんですけど、二年ぴっしりやるってのは大変苦痛なんですね。つらい。それでぼくは一年ぴっしりやって半年休んで一年やって半年休んでというのを提案したんですね。それは二年やって一年休むのと同じことになる、ですからいいだろうと思ったんです。しかし新聞には新聞で事情もある。ぼくにはわかりませんけど。今のところまだ、押せ、引け、押せ、引けで決まってないんです。

 第一日目の、第一回目に、もう書くことは決まっているんです、とりあげる人も。要するに「折々のうた」で、非常にめんどうくさいのは、とりあげるものを決めることですね。初めのころは古典作品などというものは簡単に、あれを出そう、これを出そうとぱっぱといったのです。ところが、今それをやるともうすでに書いているんですね。新聞社から電話がかかってくるんです。ぼくがファックスで原稿を送ると、「すみません大岡さん、これはね、何年何月何日に出てる」と。それが何回かあってね、がっくりまいりましてね。今はコンピュータに過去のものをすべて入れてもらって、ぼくが原稿を入れると、すぐに点検して、もう出てるか出てないかがわかるようになっています。ぼく自身は、ぜんぜんそういうことに頓着がないですからね。第一、コンピュータ関係のことは何にもできません。

 一応、まず書いてしまわないといけないと思って書いちゃう。書いちゃって送るとだめだということになるんですから、それが何回か続くと士気阻喪してしまってね、しばらくまたいやになっちゃうから、だから少し早目にやっておいたほうがいいんですが。

 五月一日からということはもうあと十日しかないわけですね。ですからもうこれから尻に火がついてやるわけです。そのためにほかの原稿を全部もう片づけなきゃいけない。今一つ「加藤楸邨さんと私」という題で書かなきゃならなくて、それは短い文章ですけど、雑誌『俳句朝日』に頼まれているもの。加藤楸邨の大特集で、楸邨さんは、私はいろいろな意味で親しくしていただいた大変な方ですので、それはいっぱい書くことがあったんですけど、それでもありすぎちゃって、どうしていいかわからなくてほっといたら、もうこれは今日やっちゃわないと危ないと思って、ここへ出てくる直前までずっと書いてて、書き終えてばーっとそれをファックスに入れてきました。

 ですから、ここのところで「折々のうた」を始めるための準備はだいたい済んだような気がしますけど。でも最初の数回は現代歌人と現代俳人のことを取り上げるつもりです。古典は、あぶないからあんまりさわらないようにしています。五千回以上書いてるんですね。古典というのはやっぱりある程度は数が決まってますから。今の人のはいっぱいある。次々、毎日毎日みんな作る。作って、簡単に本を作って、簡単に作ったものをぼくのところへばーんと送ってくるんですね。とにかく大変に忙しいことになる。

 さすがに現代のものに比べると、一つの歌で言うことがいっぱいあるのが古典ですね。必ず言えるんですよ。ことばのひとつひとつについてでもいいし、内容についてでもいいし、とにかく何か言える。現代の人のは、読んで、「ああそうですか」で終わっちゃうんです。だから困るんです。「それから」というのがないといけないんだけど、それがないままに終わっている人がけっこういるんです、現代の人はね。やっぱり現代人というのはほんとうに淡白ですね。それは非常に感じます。

*  *  *  *

 最後に、皆さんにご紹介します。マリリン・モンローはもう数十年前に亡くなった方ですけど、現存の俳優さんでマリリン・モンローかこの方かという人が、ここにいらっしゃいます。白石加代子さん。(拍手)加代子さんは、このフォーラムの発起人になってくださっています。

 ほかにも、俳優さんでいうと、今忙しいか、日本にいるかどうかわからないけど、おいでになれば、この方もよくお話しになる方ですけど、岸恵子さんという方がいらっしゃいます。岸恵子さんもこのフォーラムの発起人の一人を引き受けてくださった。

 「フォーラム」という名前のヒントを私にくれたのは、岸恵子さんなんです。初めは、「大岡信研究会」という題だった。でも、ぼくを研究することないやと困っちゃってね、岸さんと話をしていたときに「こういうのやるんだけど、困ってるんだ。大岡信研究会っていう題で」と言ったら、「そうねぇ、それはやっぱりちょっと変ねぇ」と言って、「それだったらフォーラムなんてことばがあるんじゃないの」と言ってくれたんですね。それでああそうか、そりゃいいなあと。でも実は、私はカタカナ名前のこういう題の会というのはあんまり好きじゃないんです。カタカナ名前というのは、あいまいになるから嫌いなんですね。正確にものが言えないことが非常に多いから。だけどこの場合はいいと思っています。

 岸さんがそのうち暇があっておいでになったら、戦後の代表的美女ですからね、そういう方にお話しをしてもらうのもいいだろうと思います。ぼくのお相手をして話してくれる人が大勢いらっしゃると思いますから、そのうちに岸さんもご紹介するし、もちろん加代子さんもそうですね。いろんな方に出ていただこうと思っています。

 それじゃ、このへんで第一回めは終わりにします。

 

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